カフカ著『変身』
グレゴール・ザムザは
果たして不幸だったのか?
693時限目◎本
堀間ロクなな
サラリーマン生活を終えてから1年あまりが経つが、いまもいくばくかの仕事を抱えているので、年に数回は会社へ出かける。そのときは、かつてのとおりに背広を着込みカバンを提げて通勤列車に乗るわけだが、ふと窓ガラスに映った自分がいかにもちぐはぐな姿かたちのように思えることがある。このあいだまで、こうした格好で毎日を過ごしていたというのに……。
そんな経験を踏まえて、わたしはあのフランツ・カフカの『変身』(1915年)にもっと違った読み方があるのではないかと気づいた。不条理の寓話としてだけではなく。
ある朝、アパレル会社のサラリーマン、グレゴール・ザムザが目覚めたら、固い甲羅と無数の脚を持つ虫になっていたという筋立てについてはもはや説明するまでもないだろう。かねて不思議だったのは、本人がこの事態に対してさほど驚かず、むしろ5時の列車で出張する予定をすっぽかしたことにうろたえている点だ。慌ただしく鍵のかかったままのドア越しに家族とやりとりするうち、やがてすっかり立腹した会社の支配人が駆けつけて「はっきりとした説明を聞かせてもらいたい」と問いかけると、グレゴールはドアの向こうからこんなふうに応じた。池内紀訳。
「だから支配人。すぐに、いますぐに支度をします。ちょっと気分が悪かったのです。目まいがして、起き上がれなかったのです。いままだベッドの中ですが、もう大丈夫です。ベッドから出るところです。〔中略〕八時の列車で出かけます。余分に休んだので元気になりました。もう引き取っていただいてけっこうです。支配人、すぐに任務につきます。どうか社長に報告の上、よろしく伝えてください!」
さらに相手への説得を重ねなければならないと、グレゴールは不自由なからだでやっと鍵を外し、部屋のドアを開けてあいまみえる。その姿を目の当たりにした支配人と家族が絶句して立ちすくんだのに対して、かれひとりはことさら平静を装って言葉を続けた。
「すぐに身支度をしよう。見本をかき集め、出発だ。そうなんでしょう、みなさん、早いとこ出かけてもらいたいんでしょ? ところで支配人、いかがです。わたしは強情じゃない、大の仕事好き。旅廻りは厄介だが、旅をしないでは生きられない。支配人、どこに行かれるのです? 会社にもどられる? そうですね? ならばきちんとありのままを報告してくれますね?」
この期におよんで、グレゴールがひたすらサラリーマンであり続けようとするのは一体、どうしたわけだろう? あたかもサラリーマンでなくなったら何者でもなくなってしまうかのように。どうやらかれにとっては、ゴキブリめいた虫に変身したこと以上に、サラリーマンに変身できなくなったことのほうが重大問題らしいのだ。しかし、こうした涙ぐましい努力も甲斐なく、支配人はたちまち踵を返して立ち去ってしまうのだ、あとに追いすがろうとするグレゴールを振り払って。そして――。
グレゴールは支えを失うやいなや、小さな叫びをあげながら脚を下にして倒れこんだ。とたんにこの朝はじめて、からだが実に楽になったような気がした。無数の脚はしっかり床についている。うれしいことに、脚はちゃんと言うことをきく。行きたい方へ、すぐにも運ぼうとする。苦痛だったすべてが、きれいさっぱり消えてなくなるのもまぢかだろう。はやる気持を抑えて前後にからだをゆすりながら、彼は床に横たわっていた。
グレゴールはいまになって穏やかな目を見開いたのだ。もとより、その安寧はほんの一瞬のことに過ぎなかったわけだが、たとえそうだとしても、かれがサラリーマンの呪縛から解き放たれて、この世に生を享けたたったひとりの自己というものとまっさらな気分で向きあったのはおそらく初めての経験だったろう。
グレゴール・ザムザは果たして不幸だったのか? いや、必ずしもそうではなさそうだ。カフカはボヘミア王立労働者傷害保険協会につとめるかたわらで、この小説にホンモノの自由を手に入れるためのビジョンを託そうとしたのかもしれない。かれもまた、通勤列車の目の前の窓ガラスにちぐはぐなサラリーマンの姿かたちを見て取ったのではなかったか。そして、仕事を離れては、カフェで友人たちに『変身』を朗読して聞かせて、わざわざ虫が口で鍵をくわえて顔を左右に振ってみせる動作をしながら、自分からプッと吹きだしたこともあったという。
だとするなら、グレゴールの奇想天外な物語は、これからの人生を過ごしていくわたし自身のものでもあるのに違いない。
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