ラロ・シフリン作曲/ジミー・スミス演奏『ザ・キャット』

その黒猫は人間どもの
愚かさを見つめて


694時限目◎音楽



堀間ロクなな


 年齢を重ねるにつれて、毎朝の新聞の死亡欄に目が向くようになるのは自然の成り行きだろう。先日(2025年6月28日付『読売新聞』)も、そこに思いがけず懐かしい名前を見つけてひとしきり感慨に耽ったものだ。



 ラロ・シフリンがロサンゼルスで死去、93歳。記事には、アルゼンチン出身の作曲家で、パリ音楽院に学び、アメリカへ移住したのち、ジャズ作品で初めてグラミー賞を獲得し、また、テレビシリーズ『スパイ大作戦(ミッション・インポッシブル)』(1966年~)やカンフー映画『燃えよドラゴン』(1973年)のテーマ曲を手がけたことなどが紹介されていて、それらのメロディが頭によみがえってきた。



 ただし、わたしにとっていちばん鮮やかな記憶となっているのは、ラロ・シフリンが1964年に発表したアルバム『ザ・キャット』のタイトル曲だ。これは同年のフランス映画『危険がいっぱい』のためにつくった楽曲を、アメリカに戻ってジャズ・バージョンのバラードに編曲し、ハモンド・オルガンの名手ジミー・スミスとみずからが指揮するビッグバンドの組み合わせで録音したという、いささか風変わりな由来を持つ。



 もとになった映画は、ルネ・クレマン監督が『太陽がいっぱい』(1960年)、『生きる歓び』(1961年)に続いて、当時28歳のアラン・ドロンとタッグを組んだ作品で、天下の二枚目俳優はここでは女たらしでいかさま師のチンピラ、マルクに扮している。



 マルクは、こともあろうにギャングのボスの妻に手を出したせいで命を狙われる羽目となり、尻に帆をかけて逃げるうちに、大富豪の未亡人バーバラ(ローラ・オルブライト)とその従妹メリンダ(ジェーン・フォンダ)のお雇い運転手にスカウトされて、パリ郊外の古城を思わせる屋敷に身をひそめて暮らすことに。やがてはバーバラとメリンダを手玉に取って窮地から逃れようと目論むマルクだが、どうやらふたりの女性のほうも美貌の裏に危うい策略を秘めているらしいことがわかってきた。突如、事態が急展開する。このネオ・ゴシック様式の古めかしい屋敷には壁で仕切られた隠し部屋があって、かれら3人の他に、もうひとりの人物(ネタバレを避けるべく正体は明かさないでおこう)と一匹の黒猫が住んでいたのだ。



 ラロ・シフリンが霊感を迸らせ、ジミー・スミスが颯爽と弾いてのけたのは、そんな黒猫のための音楽だった。かれの使用したハモンド・オルガンとは、教会のパイプ・オルガンの機能を電気的に再生させるポータブルの楽器で、さんざん改良を重ねて管球式のアンプによる回転式レスリー・スピーカーを備えることで完全になり、のちに開発されたシンセサイザーも凌ぐものだったという。こうした科学技術の粋をもって、黒猫のしなやかで掴みどころのない存在感を表現してみせたのだ。



 「ねえ、私が花ならなんの花だと思う?」

 「バラの蕾だな」

 「じゃあ、私が猫なら?」

 「爪を研ぎはじめた子猫といったところだ」



 ジェーン・フォンダのメリンダと、アラン・ドロンのマルクがたがいに腹にイチモツを忍ばせながら、あえて無邪気を装ってこんな睦言を交わしているありさまを、黒猫はせせら笑って眺めたに違いない。そして、自尊心と欲望に突き動かされるばかりの人間どもの愚かさに呆れ返り、ついには背を向けたことだろう。ハモンド・オルガンとビッグバンドによる異色のブルースは、そんな黒猫の誇り高い情景を描きだしてやまない。



 わたしの知るかぎり、猫をテーマにした音楽の最高傑作である。   



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍