黛 敏郎 作曲 オペラ『金閣寺』
そうすれば初めて
僕は自由になるのだ
697時限目◎音楽
堀間ロクなな
三島由紀夫と同世代の作曲家、黛敏郎がオペラ『金閣寺』を手がけたのはつぎのような経緯による。1968年ごろ、ベルリン・ドイツ・オペラの総監督グスタフ・ルドルフ・ゼルナーから音楽評論家・吉田秀和を介して日本の新作オペラ上演の企画が持ち込まれ、双方で検討を重ねたうえで、三島の小説『金閣寺』(1956年)が素材に決まったのは1970年のことだった。そこで、その年の夏に黛が三島にオペラ化の許可と台本の執筆を打診したところ、前者について承諾したうえで、こんな回答が返ってきたという。
「俺はオペラといえば新派大悲劇調のイタリア・オペラが大好きで、ゼルナー流の表現主義は性に合わないから、台本は勘弁してくれ」
もっとも、この時期、三島は畢生の大作『豊饒の海』の仕上げに取り組むかたわら、「楯の会」と自衛隊が武装蜂起する「最終行動」を計画中だったから、それどころではなかったのが本音だろう。結局、ベルリン・ドイツ・オペラ所属のクラウス・M・ヘンネベルクがまとめたドイツ語の台本に、黛が作曲するというかたちに落ち着いた。
こうして計10名の歌手と混声合唱、フルオーケストラにより、全3幕、上演に正味約2時間を要するオペラが三島没後の1976年に完成して、同年6月にベルリンで世界初演されたのち、1991年8月に日本初演が行われ(このときのライヴ録音がCDになっている)、その後も数次にわたって再演を繰り返して現在に至る。
ステージでは、原作の一人称告白体に代わって混声合唱が主人公・溝口のプロフィールを紹介したのち、本人が「金閣寺は焼かれなければならぬ」と宣言してはじまる。そこから過去へとさかのぼり、黛の音列技法を応用した鮮烈きわまりない音楽をバックに、三島の文学世界が息苦しいまでのリアリティをもって再現されていくのだ。他方で、ドイツ語オペラに仕立てたことにともなって、三島の意図に反するかのような変更も生じたが、だからといって「改変」や「改竄」のたぐいではなく、むしろ一種の「批評」と受け止めるべきだとわたしは思う。
その最大の例は、原作における溝口の「吃り」が片手の麻痺へ変更されたことだろう。もとより、オペラの歌唱のためにはやむをえない措置とはいえ、これは本来、実際の金閣寺放火事件の犯人・林承賢が吃音者だったことを踏まえて、三島が溝口を現実とスムースに交流させず、抽象的な美の領域に執着させる条件としたものだ。この「吃り」を歌唱表現に移し替えたことで、溝口の内面でひそやかに行われていた思想劇が外在化されることになったのだ。
かくして、さらに重大な論点につながる。原作の溝口は自己と現実のあいだに立ちはだかる美に対して、これを認識と行動の対立と捉えて自問自答を重ねたあげく、「美は怨敵」との思いをふくらませていくのだが、しかし、そんな妄想めいた観念を金閣寺放火の実行に飛躍させる動機となると、最後まで曖昧模糊としてはっきりしない。
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うでは父母を殺し、親眷に逢うでは親眷を殺して、始めて解脱を得ん」
いよいよ決行の段に至っても、かれはこの『臨済録』の一節を頭に思い浮かべながら、なお、自分がやろうとしていることはしょせん徒労に過ぎないとぶつぶつ反芻しているくらいだ。ところが、オペラの溝口はまったく違う。上記の禅問答を引き取って、高らかにうたいあげてみせる。
… so tote ich ihn,
tote alles, was sich zwischen mich und die Wahrheit stellt …
… denn nur so fallt die Fessel, nur so werde ich frei.
… それじゃ僕は仏を殺そう。
真実と僕との間にあるもの、すべてを殺そう。
そうすれば初めて僕は自由になるのだ。
(黛敏郎訳)
自由! 三島が原作のなかで溝口に一度も使わせなかったこの言葉こそ、どうやらドイツ語オペラには必要不可欠のキイワードだったようだ。たとえ、そのせいでひどく凡庸な結論に終わってしまったとしても、やはりそれはそれとして三島の文学世界への重大な問題提起を果たしているのではないか。というのも、三島自身が評論家・小林秀雄との対談『美のかたち』(1957年)のなかで、くだんの金閣寺放火事件の犯人・林承賢についてこう語っているからだ。
「あれはね、現実には詰ンない動機らしいんですよ。見物人が来る、若いやつがきれいな恰好してね、アベックで見物に来たりする、それがシャクにさはる、自分は冷飯食はされてて、みじめな恰好してるしね、自分の青春は台なしになつてしまふ。さういふことらしいんです」
嫉妬からの自由。美への嫉妬にがんじがらめになっている自己からの自由。そのためには仏を殺すしかない。金閣寺を焼くしかない……。およそ現実に生きる人間とは、そんな凡庸な存在でしかないだろう。オペラ『金閣寺』は、三島が描きだした観念的な思想劇をあらためて現実の人間喜劇に回収するための「批評」として成り立っている、とわたしが判断するゆえんだ。
0コメント