ロト指揮『ザ・ヤング・ドビュッシー』
21世紀になって発見された
ドビュッシー作品を聴く
699時限目◎音楽
堀間ロクなな
フランスの作曲家、クロード・ドビュッシーの『管弦楽組曲』と聞いて、たいていのクラシック音楽ファンは(わたしも含めて)首を傾げるのではないか? それも当然だろう、この作品の自筆譜(オーケストラ版とピアノ連弾への編曲版)が発見されたのは21世紀に入った2006年のことで、オーケストラ版は2012年にフランソワ=グザヴィエ・ロトの指揮により初めて現実の音となって鳴り響いたのだから。
1862年にパリ郊外で生まれたドビュッシーは幼くして音楽の天分を認められ、10歳でパリ音楽院に入学していったんはピアニストの活動をめざしたのち、18歳のときにあらためてエルネスト・ギローのもとで作曲を学んで、1884年にカンタータ『放蕩息子』で作曲家の登竜門のローマ大賞を受賞する。『管弦楽組曲』はそんな修業中のドビュッシーが手がけた最初の管弦楽作品と見なされ、「祭り」「バレエ」「夢」「行列とバッカナール」の四つのパートから構成されている。
前記の初演を担ったロトは、その後、ドビュッシー没後百年のメモリアルイヤーの2018年1月にロンドン交響楽団の指揮台に立って『ザ・ヤング・ドビュッシー』と題したコンサートを開いて、当日のライヴ映像が商品化されている。ここで『管弦楽組曲』がふたたび取り上げられたばかりでなく、ロトの言葉によれば「現代音楽を真に進化させた偉大な人物を顕彰して、かれに影響を与えた作曲家たちの三つのプログラムも紹介したい」として、ワーグナーの『タンホイザー』序曲、ラロの『チェロ協奏曲』(エドガー・モロー独奏)、マスネの『ル・シッド』バレエ組曲があわせて演奏された。
確かに視聴してみると、若き日のドビュッシーには19世紀のロマン主義音楽が怒涛のように流れ込んでいたことを思い知り、のちの印象主義や象徴主義と称された作風とは正反対の『管弦楽組曲』のド派手な音響の大伽藍に驚倒させられる仕掛けとなっている。強いてドビュッシーらしい雰囲気を挙げるなら三番目の「夢」だが、実はこの曲だけ自筆譜がピアノ連弾版しか残っておらず、それをもとに今日の作曲家がオーケストレーションを行ったために、逆にドビュッシーらしく仕上がったという皮肉な事情のようだ。
であるなら、とわたしは思いをめぐらさずにはいられない。こうした旧来のロマン主義音楽からドビュッシーを解き放って「現代音楽を真に進化させた偉大な人物」としたものはなんだったのだろう?
この怖ろしさは、必ずしも肉体的危害に対する恐怖ではなかった――だが、さりとて他に呼びようもない、告白するも恥ずかしいことながら――そうなのだ、こうして重罪犯の独房にある今ですら、なお告白するのは恥ずかしい気持だが――あの猫がわたしにかき立てた恐怖と戦慄は、まったく愚にもつかぬ妄想によってあおられていたのだ。〔中略〕この斑点は形こそ大きけれ、もともとはっきりしない形のものであった。ところが徐々に、ほとんど目につかぬほど徐々に――わたしの理性は長い間気の迷いとしてはねつけてきたが――ついにその斑点は、はっきりとした輪郭を取るに到ったのだ。それは口にするだに身ぶるいの出る、ある物の形を表わしていた――何にもましてそれゆえにわたしは件の猫を憎み、出来ることならその怪物を亡きものにしてしまいたかった。今やその斑点は、見るも怖ろしい、身の毛のよだつ物の形を――おお、怖ろしくもいまわしい恐怖と罪科の、苦悶と死の刑具、絞首台の形を示していたのだ!
アメリカの作家、エドガー・アラン・ポーが1843年に発表した『黒猫』(河野一郎訳)の一節で、主人公を狂気と破滅へと追いやった黒猫の胸のあたりに広がる白い斑点の形状を説明した個所だが、このいかにも面妖な小説がよほど世紀末パリの芸術家連中の琴線に触れたものらしい。
青柳いづみこ著『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』(1997年)によると、ちょうどドビュッシーが『管弦楽組曲』に取り組んでいたころ、ロンシュアール通りに文学キャバレ「黒猫」が開店したり、絵入り週刊誌「黒猫」が創刊されたりして、前衛芸術家たちの溜まり場となり、世間から「デカダン(頽廃)の巣窟」と呼ばれたという。ポーの言葉の「口にするだに身ぶるいの出る、ある物の形」がその原動力だったのかもしれない。そして、ドビュッシーもこうした世界に出入りする常連のひとりとなり、象徴派詩人のポール・ヴェルレーヌやステファヌ・マラルメの作品に曲をつけたりしながら、新たな音楽の地平を切り開いていった……。
いまにして発掘された『管弦楽組曲』は、そんな稀代の作曲家の過去と未来を分かつオベリスクだったのである。
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