ジャック・ベッケル監督『穴』
教訓に満ちた
脱獄のための教科書
703時限目◎映画
堀間ロクなな
恐ろしく教訓に満ちた映画だ。ジャック・ベッケル監督の『穴』(1960年)。なぜなら、この脱獄事件の実話にもとづく作品で主役をつとめたのは俳優でなく、まさに当の脱獄囚本人であり、世に刑務所や収容所からの脱走をテーマにした映画があまたあれ、ことリアリズムにおいてこれを凌ぐものは存在しないだろうから。もしわれわれが脱獄を企てるときには(そんな機会があったとして)何より有益な教訓を与えてくれる教科書のはずだ。
ときは1947年、舞台はパリ14区にあるサンテ刑務所の11棟6号房。ここにはロラン(上記の脱獄囚ジャン・ケロディ)以下4人の前科持ちの未決囚が収容されて、ひそかに脱獄をもくろんでいたところへ、新入りのガスパール(マーク・ミシェル)がやってくる。その誠実そうな27歳の青年は妻の妹と関係してトラブルとなり、妻が手にした猟銃で負傷したのを夫のせいにしたため予謀殺人未遂罪に問われ、もし裁判で有罪となれば20年程度の刑期が見込まれる身の上で、4人はかれも仲間に加えることにした。
こうして予定どおり脱獄計画がスタートする。ロランはまず鏡の破片を歯ブラシに固定したものを鍵穴から差しだして潜望鏡とし、外部の看守たちの動きをつねに監視できる仕組みをこしらえると、つくりつけのベッドから外した金属製の支柱をハンマー代わりに、白昼堂々と床下のコンクリートの破壊に取りかかった。そのけたたましい音響に仲間が恐慌をきたすと、かれは平然とこんなふうにうそぶいた。
「この音が救いの神なのさ」
教訓。脱獄にあたっては、避けて通れない試練は迷わずにやること。そうすればおのずから道が開ける。実際、真っ昼間の刑務所にはさまざまな物音が錯綜するなか、かくも騒々しく脱獄の準備がはじまったとは思わなかったのだろう、看守のだれひとりとして注意を向けなかったのである。
床下に穴を開けることに成功すると、ロランは仲間たちと力を合わせて刑務所の地下空間の探索に乗りだす。必要に応じて、インク壺で携帯用ランプをつくったり、クスリの空き瓶で作業時間を計測する砂時計をつくったり、古い扉の金具を使って汎用の合鍵をつくったり……と、眼前の障壁をひとつひとつ打ち破って範囲を広げていき、地下水道から外界へと抜けだすルートの構築に立ち向かう。そんなかれらのアンサンブルは、あたかも全体がひとつのからだの手足となって行動するかのような印象があり、新入りのガスパールは感極まってこんな言葉を口走った。
「こんな胸のすくような思いがしたのは初めての経験だ。嘘じゃない。みんなとこうした縁にめぐりあえて、ぼくは自分が生まれ変わった気がするよ!」
教訓。脱獄にあたっては、男同士のチームワークを最大限に活用すること。なぜか男というものはこうした悪事になると、ことさら協調精神と献身的な労働力を発揮するものらしい。これをシャバ〈一般世間〉で実現すれば、ハナから刑務所などに入らなくて済むと思うのだけれど。
ところが、ここに予想しなかった事態が生じる。地下水道のセメント壁の貫通をなしとげ、いよいよ明日には脱獄を敢行するという段階に至って、突如、ガスパールに刑務所長からの呼びだしがかかり、かれの予謀殺人未遂罪について妻が訴えを取り下げたことを知らされたのだ。裁判所の承認が下り次第、数日中にも無罪放免となるという。その結果、ガスパールは釈放と脱獄を天秤に掛けなくてはならない成り行きに……。
かくて、かれの密告によって計画はあえなくご破算となり、もとの4人の未決囚たちは独房への移動を命じられた。ロランはこの期におよんでも誠実そうな顔つきの青年に向かって毒づいた。
「情けないヤツだ」
どうやら脱獄にあたっては、いや、脱獄にかぎらず重大なプロジェクトにあたっては、おいそれと20代の男を信用してはならないらしい。
かくいうわたし自身の過去を振り返ってみても、20代のころはいっぱしの大人になった気分の一方で、心身に落ち着きがなくてとかく場当たり的な生き方をしていたような気がする。あの『論語』において「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず……」とあって「二十」がスルーされているのも、孔子そのひとでさえ、この年代はあまりに不安定で人生の基準を見出しえなかったことを意味しているのではないか。そんな悲観的な現実こそ、恐るべき映画『穴』が指し示してみせたいちばんの教訓だと思う。
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