周防正行 監督『シコふんじゃった。』
力士たちは
桃色の若い巨人で
706時限目◎映画
堀間ロクなな
「力士たちは桃色の若い巨人で、システィーナ礼拝堂の天井画から抜けだしてきた類稀な人種のように思える。ある者は伝来の訓練によって、巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。いずれのタイプの力士も髷を頂いて、可愛らしい女性的な相貌をしている。不動の平衡ができあがる。やがて足が絡み、やがて帯と肉とのあいだに指が潜り込み、廻しの下がりが逆立ち、筋肉が膨れあがり、足が土俵に根をおろし、血が皮膚にのぼり、土俵一面を薄桃色に染めだす」
ジャン・コクトーが1936年(昭和11年)に来日して国技館で相撲を観戦したときの記録の一節だ。周防正行監督の映画『シコふんじゃった。』(1992年)は、三流私立大学の穴山教授(柄本明)が比較文化の授業でこれを読みあげるところからはじまる。
元学生横綱の穴山は相撲部の顧問をつとめていて、いまや部員が揃わず廃部の危機にあったところ、授業をサボってきた軟派学生の山本秋平(本木雅弘)に対し、卒業に必要な単位と引き換えに臨時の相撲部員として大会に出場することを命じる。こうして汗と涙と笑いの青春スポーツ群像劇が幕を開けるのだが、同種のおびただしい映画と一線を画するのは、やはり相撲が単なるスポーツではなく日本古来の伝統と文化に根ざすものだからだろう。そのことを鮮やかに指し示してみせたのが、冒頭のフランスの詩人による文章に他ならない。
さらに、この映画が世に登場した1992年(平成4年)というタイミングに注目したい。当時、若花田・貴花田の兄弟力士が国民的人気を博して空前の相撲ブームを巻き起こしていたが、それよりもさらに重要なのは、この年までひとりの外国人力士の横綱も存在しなかった事実だ。映画公開の翌年、1993年(平成5年)にハワイ出身の曙が横綱となったのちに、同じく武蔵丸、そして、モンゴル出身の朝青龍、白鵬、日馬富士……と、外国人力士が横綱の座を占めて今日に至っているのは周知のとおり。すなわち、この映画は国技である相撲の頂点に立つのが日本人であることを当たり前としてきた時代の掉尾を飾り、もはや二度と戻ってこない過去の光景を描いたという意味で一種の時代劇とも見なせるのではないだろうか。
昭和天皇が幼いころに侍従と相撲をとった有名な写真が存在するが、かつて男の子たちは社会的境遇にかかわらずだれでも相撲の経験を持っていたはずだ。地面を円で仕切って、年齢の上下も体格の大小も関係なく、からだひとつで一対一で向きあってぶつかりあう。決して卑怯な真似をしてはならない。なぜなら、自分の足の踏む土俵がはるか彼方の横綱の土俵までつながっていることを子どもたちだって知っていたのだから。
わたしにもこんな思い出がある。小学3年生のとき、久しぶりに大雪が降った日に広場で数人の友だちと雪合戦に興じていたら、見ず知らずのグループも雪合戦をやっていたのと入り混じって、双方のあいだで雪玉が当たったとかなんとかのケンカがはじまった。すると、先方のグループのひとりの子どものきょうだいらしい年長者が仲裁に入り、その子とわたしが相撲で決着をつけることを提案してきて、運動神経の鈍い自分に勝ち目はないと思ったけれど、ここで逃げるわけにはいかないと承諾した。そこでて、積雪のうえに円を描いて取っ組みあったところ、相手は足を滑らせたのか、あっけなく引っ繰り返って、行司役の年長者がわたしの勝利を宣言して収まった。あのときの晴れがましい「シコふんじゃった」の気分はいまも胸の底にはっきりと刻まれている。
映画では、撮影時25歳だった本木雅弘の扮する秋平がいやいやながら相撲部の稽古場へ出向いていくと、先輩の青木(竹中直人)が待ちかまえていた。そして、すぐさま素っ裸にして廻しで腰を締め上げたとたん、かれは呻き声をあげる。
「つぶれる!」
そうなのだ。男の子にとって相撲とは、ふだん気に留めることもない、おのれのキンタマを要の中心として勝負に立ち向かうことなのだ。わたしはこの映画を見返すたびに泣き笑いしながら、股間の奥まったあたりが引き締まってくるのを実感するのである。
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