マイケル・カーティス監督『カサブランカ』

イングリッド・バーグマンが
この映画を嫌ったわけは?


710時限目◎映画



堀間ロクなな


 ハリウッド映画史上屈指の名作とされるマイケル・カーティス監督の『カサブランカ』(1942年)で美貌のヒロイン、イルザを演じたイングリッド・バーグマンは、のちにインタビュー取材でみずからの代表作を問われると「『カサブランカ』だけは選びません」と答えるのがつねだった。また、その夫でレジスタンス指導者のラズロに扮したポール・ヘンリードも、死ぬまでこの作品に出演したことを悔やんでいたという。



 男の美学を体現するカフェのオーナー、リックを演じたハンフリー・ボガードの役柄に関する見解は伝わっていないようだが、かれは撮影期間中、三人目の妻からバーグマンとの仲を疑われて連日の大喧嘩に一睡もできず酩酊状態でセットに現れることもしばしばだったというから、それどこころではなかったのだろう。いずれにせよ、主演俳優たちの受け止め方と作品の評価のあいだにこれほどのギャップがあるケースは他に見当たらないのではないか。そのあたりの事情を考えてみたい。



 いまさら紹介するまでもなく、この映画の舞台はナチス・ドイツがパリを占領したのちのフランス領モロッコの港湾都市カサブランカで、ここにはヨーロッパ各地から亡命希望者たちが出国ビザを求めて群がり集まっていた。そんな混沌とした状況のもとで上記の3人の主役を取り巻く、フランス植民地警察のルノー署長(クロード・レインズ)も、ドイツ空軍現地司令官のシュトラッサー少佐(コンラート・ファイト)も、リックの店のジャズマンのサム(トゥーリー・ウィルソン)も、ブラック・マーケットの支配者フェラーリ(シドニー・グリーンストリート)も、すべての登場人物が異なる背景を持って複雑に入り組んだ人間模様をなしているのだが、その実、かれらは自己の立場に対して実直な範囲内にあって逸脱することなく、どこまでも健康的とさえいえるだろう。



 「きみの瞳に乾杯」



 リックがイルザに告げるそんなキザな台詞に幻惑されて(わたしは若いころ、デートの席でこの言い回しを使って彼女にせせら笑われた苦い思い出がある)、つい酔い痴れてしまうものの、この映画を繰り返し鑑賞するうちに陰影の乏しい人形劇のように見えてくるのは、おそらく人物造型のあり方が理由で、主演俳優たちが重要なキャリアと見なさなかったのもそこに由来するのではないだろうか。ところが、こうした群像のなかにあって、ただひとり異彩を放つ登場人物がいる。闇ブローカーのウガーテだ。



 物語は、ドイツの高官2名が列車で移動中に殺害されて、そこから消えた万能の通行許可証をめぐって展開していくのだが、真犯人は亡命希望者相手に出国ビザの売買をなりわいとするウガーテだった。かれはドイツ高官から奪った通行許可証を高額で売りさばくまで預かってもらおうとリックの店へやってきて、ルーレット賭博に興じていたところ、あらかじめ張り込んでいたルノー署長以下の警察隊によってあっさり捕縛されてしまう。そんな間抜けな役柄ながら、これを演じた俳優が問題である。



 ピーター・ローレ。怪優といっていいだろう。フリッツ・ラング監督のドイツ映画『M』(1931年)の連続少女殺害犯の役で注目を浴びたのち、ナチスの台頭によりユダヤ人のかれは祖国を離れて、アルフレッド・ヒッチコック監督の『暗殺者の家』や『間諜最後の日』、カール・フロイント監督の『狂恋』、ジョセフ・フォン・スタインバーグ監督の『罪と罰』(ラスコーリニコフ役!)などに出演し、当時、精神に異常をきたした人物の役をやらせては並ぶ者のない存在だった。



 したがって、かれのウガーテについても、ただの小悪党とはとうてい受け止められない。そもそもナチスの暴風が吹き荒れているまっただなかで、ドイツの高官2名を殺害することにともなうリスクと、それで入手した通行許可証から得られる利益を天秤にかけたとき、常識的なアタマなら釣りあいが取れないと判断するはずだ(実際、ウガーテは逮捕後、裁判抜きでただちに処刑されたらしいことが暗示される)。となると、かれの病んだアタマではカネが目的というより、自分でもどうすることもできない殺人への嗜好が先に立ったと考えたほうが腑に落ちるし、あいつぐ世界大戦の時代にはこうした人物造型のほうがずっと説得力を発揮しただろう。かれは微笑みを浮かべながら、リックに向かってつぎのように語りかける。



 「あんたがぼくを軽蔑しているから、かえってぼくはあんたを信頼できるんだ」



 ひっきょう、ピーター・ローレのウガーテがドラマに持ち込んだのは、万能の通行許可証以上に、人間性がとめどなく自壊していく恐怖だった。そこに口を開けたどす黒い虚無の闇を背にしてこそ、リックとイルザ、ラズロの三角関係の恋愛劇はまばゆく光り輝き、かれら主演俳優たちの思惑にかかわらず、この映画を歴史上の至高の名作へと押し上げたというのがわたしの見立てである。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍