今井 正 監督『武士道残酷物語』
われわれは「忠義」から
解き放たれたのか?
713時限目◎映画
堀間ロクなな
新渡戸稲造は1899年(明治32年)海外の読者向けに英文で上梓した『武士道』のなかで、「忠義」の徳目に関して、菅原道真にまつわる事例を紹介している。日本国の最大人物のひとりであるかれが陰謀によって都を追われたとき、政敵はその子息の生命までも奪おうとしたが、かつて道真に仕えた家の者が同じ年頃のわが子を身代わりにして首を差し出したことで救ったという。そして、『旧約聖書』のエピソードに関連づけてこんなふうに論じるのだ。
「これは代贖の死の物語である――アブラハムがイサクを献げようと思った物語と同様に著しき話であり、またそれ以上に嫌悪すべきものでもない。双方の場合ともに、目に見ゆる天使から与えられたか見えざる天使からか、また肉の耳によりて聞いてか心の耳によりてか、いずれにせよ義務の召命に対する従順、上より来る声の命令に対する完き服従があったのである」(矢内原忠雄訳)
そんな「忠義」を徹底的に突きつめたのが、今井正監督の『武士道残酷物語』だ。こうした映画が1963年(昭和38年)という戦後の高度経済成長のまっただなかで公開されたのは、その原動力となったいわゆる「日本株式会社」の根底に武士道精神が横たわっていることを国民のだれもが暗黙のうちに感じ取っていたからに違いない。
物語は、戦国時代に飯倉次郎左衛門が信州矢崎の小大名・堀式部少輔に仕えることになったところから説き起こされ、以降、7代にわたって当主たちが「忠義」に翻弄されるありさまを、中村錦之助(のちの萬屋錦之助)が一人七役に扮してオムニバス形式で描いていくものだ。その映像はしばしば目をそむけたくなるほど血なまぐさく凄まじい。ひとりは主君の合戦の場での不手際の罪を背負って割腹し、ひとりは主君にさんざん蔑ろにされながらその死に殉じることになり、ひとりは主君の側室との関係を疑われて羅切り(ペニスの切断)の刑を受け、ひとりは剣の達人だったために主君の命で理不尽にも息子夫婦を斬らされ、また、明治維新を迎えてからは、ひとりはすっかり落ちぶれた最後の主君の夜伽に愛妻をあてがってやり、ひとりは新たな主君の日本国家のもとでたび重なる戦争に出征してあっけなく散っていった。
この350年のあいだ、父親から息子へ「侍は主君あっての侍なれば、おのれは無き者と知れ」と飯倉家の家訓をひたすら伝えながら……。
そして、現在の当主・飯倉進は建設会社の営業部につとめていたが、たまたまライバル会社のOLと結婚することになったところ、上司からその伝手で大型入札案件の内部資料を手に入れるよう命じられて、それが原因で婚約相手は睡眠薬による自殺を図ってしまう。かろうじて一命を取りとめた彼女のベッドの枕元で、かれはもはや会社に拠らず、ふたりの決断だけで生きていくことを誓って、ついに飯倉家をがんじがらめにしてきた「忠義」の呪縛から解き放たれるのだった。
こうして映画はひとまずオチをつけたわけだけれど、果たして現実にはどうか。映画公開から半世紀あまりが経過した令和の日本社会にあって、確かに大方の国民は封建的な倫理観から自由になったように見受けられるものの、一方で、急速な少子高齢化の趨勢のなかで社会保障費の増大を抑制するべく、政府・財界をあげてサラリーマンの70歳までの定年延長が画策されている。つまりは、平均健康寿命(男性73歳、女性75歳)のことごとくを勤労に捧げ、以後はひとの手助けによって生き永らえるというわけで、ある意味では封建時代よりも熾烈な人生といえよう。そこに武士道の「忠義」のしぶとい残照を見て取るのは、わたしだけだろうか?
いや、必ずしもそうではあるまい。新渡戸稲造も『武士道』で世界に向かってこう宣告しているのだから。
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。〔中略〕それはなんら手を触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている」
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