レニ・リーフェンシュタール監督『民族の祭典』

そのときヒトラーは
へなへなと腰を落とした


718時限目◎映画



堀間ロクなな


 ふだんテレビでは報道番組のたぐいしか見ないのだけれど、近年、スポーツの占める割合の非常な大きさがとても気になる。われわれの実生活のなんの役にも立たない情報が、なぜここまで幅を利かせるようになったのか。念のため書き添えておくと、わたしは自分も親しんできたスポーツというものを見下すつもりは毛頭ない。問題はテレビの比重のかけ方で、日本国民すべてにとって大谷翔平選手の一挙手一投足が重大ニュースかのような報道ぶりは一体、どうしたわけだろう?



 そこで思い浮かぶのは、レニ・リーフェンシュタール監督の『オリンピア』(1938年)だ。これは1936年にナチス・ドイツで開催されたオリンピックのベルリン大会のドキュメンタリーで、おそらく歴代のオリンピック記録映画のなかで最も有名な作品だろう。史上初となった聖火リレーから、開会式、陸上競技までを描く『民族の祭典』と、陸上以外の競技から閉会式までを描く『美の祭典』の二部構成で、前者では三段跳びの田島直人(金)、原田正夫(銀)、棒高跳びの西田修平(銀)、大江季雄(銅)、マラソンの孫基禎(金)、南登竜(銅)、後者では200m平泳ぎの葉室鉄夫(金)、小池礼三(銅)ら、日本選手たちの英姿も登場する。



 他方で、この二部構成を別の視点から捉えることもできる。『民族の祭典』ではときのドイツ総統、アドルフ・ヒトラーが開会式でオリンピック開幕の宣言を行ったのち、貴賓席から競技を観戦する様子がしばしば映しだされて、あたかもヒトラーそのひとが主人公のような印象があるのに対して、『美の祭典』のほうはまったく顔を見せないぶんだけインパクトに欠けるのだ。



 ヒトラーはこのオリンピックの4年前、1932年に政権の座に就くと、たちまち軍備の拡充やユダヤ人排除の政策を打ち出した。やはりリーフェンシュタールが手がけた『意志の勝利』(1935年)は、そのころニュルンベルクで行われた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の全国党大会の記録映画だが、このなかでヒットラーは激烈な口調でこんな演説を繰り広げている。



 われわれは今夜ここで誓う

 いつの日もいつの時も

 ドイツのことだけを考える

 わが国とその国民のことだけを考えると――

 ドイツに ジークハイル! ジークハイル!



 まさにオリンピックの精神とは真っ向から対立する主張だろう。ベルリン・オリンピックの開催にあたって、ヒトラーはこうした言辞を固く封印し、国じゅうの反ユダヤ主義の標語を取り下げ、ユダヤ系選手の大会出場も認めたという。その結果、映画では、ヒトラー総統のもとで全世界のさまざまな肌の色やさまざまな信仰を持つ選手たちがひとつになって競技に立ち向かうドラマが描きだされた。このことから、のちに歴史の真実を隠蔽してナチスを礼賛したプロパガンダ映画と見なされ、リーフェンシュタールは批判を浴びることになるのだが、果たしてそんな単純な図式の話だろうか?



 わたしの見るところ『民族の祭典』で最も興味を掻き立てられるシーンは、女子4×100mリレーの決勝戦だ(かつて小学校の運動会でメイン・イベントがこの競技だったことを思い出す)。ドイツのチームは予選で世界記録を出したため金メダル候補の筆頭だったらしく、貴賓席に並ぶヒトラーと宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスはのっけから興奮の面持ちで、スタートの号砲が鳴るなり、ヒトラーは前のめりに立ち上がり、ゲッベルスは大きな双眼鏡を構えた。すると、第一走者から第三走者まではトップを走っていたものの、最後の第四走者がバトンを落として失格となってしまい、アメリカが逆転優勝を決めたとたん、ヒトラーもゲッベルスも呆然とした顔つきでへなへなと腰を落としたのだ。



 そこにあったのは、隠蔽や礼賛などではなく、ごくありふれたスポーツ観戦のありさまだった。貴賓席の独裁者も、スタンドの観衆も、あるいはこの場に居合わせず映画館のスクリーンで接した一般のドイツ国民も、同胞選手の勝敗に一喜一憂するだけの存在で、おそらくこのときだけは忘れられたのだろう。もうすぐ目の前まで第二次世界大戦が迫り、ついには未曾有のカタストロフィへ至ることになる現実を――。



 そして、それはまた、今日、テレビのスポーツ報道によって、社会の現実から目を背けているわれわれ自身の姿でもあるのではないか。あたかも一種の麻薬のように。かくして、およそ先の見えない現実の危うさが増すにつれて、テレビの報道番組に占めるスポーツの割合もどんどん増殖していっている気がするのだ。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍