丸山眞男 著『超国家主義の論理と心理』

「昭和100年」を期して
あらためて読み返してみると


719時限目◎本



堀間ロクなな


 今年(2025年)は「昭和100年」に当たるとして硬軟さまざまな企画が行われているようだが、あらためてこの1世紀を振り返ってみようとしたときに、丸山眞男の『超国家主義の論理と心理』(1946年)は最も重要な文章のひとつだろう。



 これは、昭和の最初の20年間、あまりにも無謀な全面戦争へと突っ走った超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)の思想構造と日本人の集団的心理について、陸軍一等兵から復員したばかりの32歳の丸山が凄まじい気迫をもって分析したものだ。その問題意識の所在を、日本の「八紘為宇」や「天業恢弘」といったスローガンと、ナチス・ドイツの『我が闘争』などの世界観的体系を対比しながら、こんなふうに説明している。



 しかし我が超国家主義にそのような公権的な基礎づけが欠けていたということは、それがイデオロギーとして強力でないという事にはならない。それは今日まで我が国民の上に十重二十重の見えざる網を打ちかけていたし、現在なお国民はその呪縛から完全に解き放たれてはいないのである。国民の政治意識の今日見らるる如き低さ規定したものは決して単なる外部的な権力組織だけではない。そうした機構に浸透して、国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。



 こうして書きはじめられた論考は、天皇を頂点とする国家主権のもとにあっては、上下関係が天皇からの距離によって規定されて、上位から下位へと抑圧が移っていく「抑圧委譲の原理」が働く一方で、だれも事態への責任を負うことのない「無責任の体制」が現出したとして、あたかも鋭利なメスをふるうように日本軍国主義の内実を暴きだして、丸山を戦後論壇の第一線に立たせたことは周知のとおりだ。



 そのうえで、そうした日本固有の状況がいかなる国民の心的傾向をもたらしたのか、つぎのように指摘される。



 従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。〔中略〕従って私的なものは、即ち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。営利とか恋愛とかの場合、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。



 では、ひとりひとりが心中に抱え込んでいたうしろめたさは、果たしてどのような形で心理的補償がなされたのだろう? 丸山はその実例として、自分が軍隊生活で体験したエピソードを報告している。



 例えば「作戦要務令」に、「歩兵ハ軍ノ主兵ニシテ、諸兵種協同ノ核心トナリ」云々という言葉がある。私は朝鮮に教育召集を受けたとき、殆んど毎日のようにこれを暗誦させられた。ある上等兵が、「いいか、歩兵は軍の主兵だぞ、軍で一番えらいんだ、『軍ノ主兵』とあるだろう、軍という以上、陸軍だけでなく海軍も含むんだ」といって叱咤した声が今でも耳朶に残っている。〔中略〕かくして部隊は他の部隊に対する、中隊は他の中隊に対する、内務班は他の内務班に対する優越意識を煽られると共に、また下士官には「兵隊根性」からの離脱が、将校には「下士官気質」の超越が要求される。



 すなわち、私的領域でのうしろめたさが公的領域での優越意識によって補償されるという構図があったわけだ。そこで、わたしは重大な疑問に駆られる。こうした心理的機構が昭和の最初の20年間だけのものだったのか、あるいは、以後の80年間も連綿と存続して現在に至っているのか、と――。もとより、昭和20年(1945年)の敗戦をもって天皇は神から人間になり、軍国主義は民主主義に取って代わられて、国家秩序のシステムは根本から変容したといっていいだろう。もはやそこに超国家主義の片鱗を見出す向きは国内外のどこにも存在しないに違いない。しかし、だからといって、国民の集団心理までが手の平を返したように一変したと安易に理解していいのかどうか。



 今日のわれわれはいまさら営利や恋愛でうしろめたさを覚えたりはしまい。だが、とうにグローバル時代を迎えた国際社会にあって、個々人の私的領域ではとかく慎み深い態度を取りながら、衆を恃む公的領域となったとたん、にわかに日本が特別な国家のごとく近隣の中国や韓国などに対して優越意識を示すかのような傾向が見られるのはどうしたわけだろう? 丸山が書きつけた「現在なお国民はその呪縛から完全に解き放たれてはいない」の言葉を、わたしはあらためて反芻してみる必要があると思うのである。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍