陶淵明 著・川島雄三 訳『雑詩』

いきてるうちがはなではないか
さいげつひとをまたないぜ


721時限目◎本



堀間ロクなな


 昭和の映画監督で奇才といったら、真っ先に指を折られるべきは川島雄三だろう。1918年(大正7年)青森県に生まれ、戦後の日本映画黄金期に松竹、日活、東京映画で『洲崎パラダイス・赤信号』(1956年)、『幕末太陽傳』(1957年)、『雁の寺』(1962年)など数々の名品をつくりあげながら、その作風には現実を斜に眺めるような露悪趣味の危うさがあって、天才・秀才といった呼び方よりも奇才の称号がふさわしい。そんな川島には人生のモットーともいうべき言葉があった。



 「サヨナラ」ダケガ人生ダ



 これはよく知られているとおり、井伏鱒二が漢詩を日本語に移した一連のシリーズのなかで、于武陵『勧酒』の結句「人生足別離」にあてた訳で、その井伏の小説を原作とした『貸間あり』(1959年)では、ドラマの狂言回し役をつとめるコンニャク研究家(桂小金治)が繰り返し口にする。ことほどさように川島がこの言葉に執着したのは、持ち前のシニカルな人生哲学というより、若くして筋委縮性側索硬化症(ALS)を発症して、つねに死を意識しないではいられなかった痛烈な宿命と対峙してのことだったろう。



 川島がこれを愛誦するばかりでなく、自分でも井伏の向こうを張って漢詩の日本語移し変えに取り込んでいたのを知ったのは最近のことだ。わたしが目にしたのは、中国六朝時代の田園詩人、陶淵明の作品である。



 「雑詩」陶淵明


 人生無根蔕

 飄如陌上塵

 分散逐風転

 此已非常身

 落地為兄弟

 何必骨肉親

 得歓当作楽

 斗酒聚比鄰

 盛年不重来

 一日難再晨

 及時当勉励

 歳月不待人


 (川島雄三訳)

 にんげんねもなくへたもない

 みちにさまようちりあくた

 ときのながれにみをまかすだけ

 しょせんこの身はつねならず

 おなじこのよにうまれりゃきょうだい

 えにしはおやよりふかいのだ

 うれしいときにはよろこんで

 ともだちあつめてのもうじゃないか

 わかいときはにどとはこない

 あさがいちにちにどないように

 いきてるうちがはなではないか

 さいげつひとをまたないぜ



 1948年(昭和23年)、川島が30歳のときの訳という。このころ映画づくりの本格的な活動がはじまって地元・青森県の『東奥日報』に「日本で最年少の映画監督」と紹介されたりする一方で、不治の宿痾はじわじわと身体を侵して歩行するのさえ支障をきたすようになっていた。いわば、先の見えない未来に向けて希望と絶望が激しくせめぎあうなかで紡がれたものだろう。手元の『陶淵明全詩文集』の林田愼之助による語釈では、最後から2行目の「勉励」には学問につとめはげめという解釈と、遊び楽しみにつとめはげめという解釈のふたとおりがあるそうだが、かれはいずれも採らず、ただ生きてあることだけを寿いでいるようだ。わたしは平静な気分で読むことができない。



 このときから15年後、川島は計51本の映画を残して45歳で他界した。


   

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