ヘミングウェイ著『老人と海』
そこには老人の
秘められたエロティシズムが
724時限目◎本
堀間ロクなな
若いころと現在とで受け止め方にギャップが生じるのはしばしばだが、アーネスト・ヘミングウェの『老人と海』(1952年)もそんな例のひとつだ。この有名な小説の筋立てについては多言を要しまい。キューバの老漁師が単身でメキシコ湾に漕ぎだし、巨大なカジキと3日間にわたる激闘を繰り広げて仕留めたものの、帰途、血の匂いを嗅ぎつけたサメの群れに襲われて、ようやく港に辿り着いたときには骨だけになっていたという内容。これにより、ヘミングウェイはピューリッツァー賞とノーベル文学賞を受賞した。
わたしは大学生のころに初めて読んで、老人がカジキと過ごした3日間は聖なる時間であり、たとえ現世の利益に結びつかなくとも、人間の尊厳を露わにして至上の価値があると考えたものだった。むろん、いまだってこうした理解を否定するのではないけれど、自分も老人といわれる年齢に達してみると、そこにはきれいごとだけでは済まない、もっと生々しいドラマが横たわっていたことに気づくのである。
小説のはじまりで、老人はこれまでの84日間一匹の釣果もなくて困窮に瀕している。だが、85日目のきょうにはきっと大きなツキに恵まれるはずと威勢がいいのは、一体、何を意味しているのだろう? わたしは老人のなかで「溜まっていた」のだと思う。かなりの禁欲の期間を経て、若い男ならば性欲ではち切れそうになるところ、かれの場合、もはやそう単純な生理的反応ではないにせよ、やはり体内に充満するものはあったろうし、かなり以前に妻を亡くして独身生活を営んできたからには、それはエロティシズムと呼ぶにふさわしい衝動だったはずだ。だからこそ、夜明け前にいつもの小舟を繰りだしながら、こんな感慨に耽ったのだ。高見浩訳。
老人の頭のなかで、海は一貫して “ラ・マール” だった。スペイン語で海を女性扱いしてそう呼ぶのが、海を愛する者の慣わしだった。そうして海を愛する者も、ときに海を悪しざまに言うことがあるが、女性に見立てることには変わりない。〔中略〕老人はいつも海を女性ととらえていた。大きな恵みを与えてくれたり、出し惜しみしたりする存在ととらえていた。ときに海が荒れたり邪険に振舞ったりしても、それは海の本然というものなのだ。海も月の影響を受けるだろう、人間の女と同じように。老人はそう思っていた。
かくして、正午ごろ、釣り綱に凄まじいばかりの手応えを得て大きな獲物が掛かったことを覚ったが、その姿を目視できないまま必死で綱を操るうちに舟はどんどん沖へと引っ張られていった。そうやって長い一夜を過ごし、ふたたび朝を迎えて相手はようやく海上に出現したのだ。
綱はなおもゆっくりと着実にもちあがり、前方の海面が盛り上がったと思うと、魚が浮き上がった。すぐには全貌を現わさず、背の両側からざばーっと海水が流れ落ちる。日を浴びて魚体が耀いた。頭から背にかけては濃い紫色、側面には薄い紫色の縞が陽光に鮮やかだ。嘴は野球のバットほどに長く、剣のように細くとがっている。全身を洋上に躍らせたのもつかのま、ダイヴィングの選手のように、すんなりと水中に没した。老人の眼前で、大鎌のような尻尾が水中にもぐり、綱がするすると走りだした。
猛々しく輝くばかりの美をまとった姿は、老人の溜め込んだエロティシズムが見せた幻影でもあったろう。この瞬間から両者の雌雄を決する戦いが幕を切って落とし、さらにもう一夜にわたって死力を尽くした闘争ののち、最後に老人は睡眠が取れず朦朧とした意識のなかで手にした銛を相手の心臓めがけて打ち込んだ。
老人は綱を放した。それを足で踏みつけ、銛を高々と持ち上げ、渾身の力をこめて、しかもなお残っていた力を絞り切って、自分の胸の高さまでもちあがっていた魚の横腹、大きな胸びれの真後ろに、突き下ろした。〔中略〕次の瞬間、死を抱え込んだ魚が最後の生気をとりもどし、水上高くせり上がって、堂々たる雄姿の全容と力と美を見せつけた。そいつは一瞬、老人の頭上の宙に静止したかに見えた。が、すぐにざばーっと海面に落下すると、老人と舟の上一面に盛大な水飛沫を浴びせかけた。
ジョン・スタージェス監督による映画化(1958年)では、名優スペンサー・トレイシーがこの場面で年老いた男のあからさまな恍惚の表情を演じてみせたものだ。まさしくエクスタシーの瞬間だったろう。その意味で、老人とカジキは、『武器よさらば』(1929年)のフレデリック・ヘンリー中尉と看護師キャサリン・バークレー、『誰がために鐘は鳴る』(1940年)の義勇兵ロバート・ジョーダンとマリアと同じく、たがいに愛しあいながら死の宿命に引き裂かれることで永遠に結ばれる関係を表徴していた、とわたしは思う。
当時51歳だったヘミングウェイは、イタリアの旅行先で旧家の令嬢アドリアーナ・イヴァンチッチと出会い、レッキとした妻がありながら、31歳も年の離れた彼女に「老いらくの恋」を燃えあがらせて、そのエネルギーで一気呵成に『老人と海』を完成させたという。むべなるかな。
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