パク・クァンヒョン監督『トンマッコルへようこそ』

フォークロアの語り口で
戦争を叙述してみれば


725時限目◎映画



堀間ロクなな


 そろそろ21世紀も第1四半期が過ぎて中盤へと向かい、めざましい情報革命によって人類はだれもが隣人であるかのように相互の距離が縮まったというのに、今日なお地球上に戦火の絶えることなく、世界各国は軍備の拡張に汲々としている。そこにはさまざまな要因が横たわっていようが、ひとつに戦争をめぐる語り口の問題があるのではないだろうか? というのも、パク・クァンヒョン監督の『トンマッコルへようこそ』(2005年)から受け取った鮮やかな印象がいまも尾を引いているからだ。



 この韓国映画の時代背景は、朝鮮戦争でアメリカ軍が仁川上陸を敢行して南北の闘いが激烈をきわめた1950年11月。そうしたなか、血で血を洗う戦場からこぼれ落ちるようにして太白山脈をさまよっていた韓国軍のピョ少尉(シン・ハギュン)ら2名と、人民軍のリ中隊長(チョン・ジェヨン)ら3名、さらに飛行機の故障で不時着したアメリカ軍パイロットのスミス大尉(スティーヴ・テシュラー)は、それぞれ偶然に導かれて、山間の地図にのっていない小さな村に辿り着いた。



 とまあ、いかにもしかつめらしい叙述もできるのだが、「子どものように純粋な村」という意味を持つこのトンマッコルを舞台としたドラマは、どこか懐かしいのどかな雰囲気を湛えているだけに、老若を問わず馴染み深いフォークロア(民話)の語り口のほうがふさわしそうだ。こんな具合に。



 そのむかし、山奥の小さな村に南の国の兵隊さんと北の国の兵隊さん、それに外の国の兵隊さんがやってきました。村の人々はまわりで戦争がはじまったことも知らずに平和に暮らしていたのに、兵隊さんたちはおたがいに武器を構えていがみあい、ひょんな弾みで手榴弾を納屋に放り込んだことから、1年分のトウモロコシがいっぺんにポップコーンになって飛び散ってしまいました。村にはちょっぴりオツムの足りない女の子のヨウル(カン・ヘジョン)がいつも笑顔をふりまいていましたが、この惨事のときも楽しそうにはしゃぎまわりました。そこで、南の国と北の国の兵隊さんはお詫びにジャガイモの収穫作業を手伝うことになり、そのうちすっかりヨウルが好きになり、村祭りを迎えたころにはみんなが仲良くなっていました――。



 しかし、こうしたファンタジーは長くは続かなかった。偵察任務中に行方不明となったスミス大尉の捜索のためにアメリカ軍の落下傘部隊が出動し、トンマッコルを訪れるなり横暴な振る舞いに出たことから、村人のなかにひそんでいた南北の兵士たちが銃弾を浴びせて勝利する。が、流れ弾がヨウルに当たって命を奪ってしまった。そして、落下傘部隊の生き残りから24時間後に本格的な爆撃が開始されることを聞きだすと、かれらは村を破滅から守るべく立ち上がった。



 本来は仇敵の間柄ながら、人民軍のリ中隊長の申し出により韓国軍のピョ少尉に指揮権が一本化された。まずスミス大尉をアメリカ軍の本部に派遣して今後の攻撃の中止を訴えさせる一方で、南北の5名の兵士はただちにトンマッコルから距離を隔てた峠に展開して、夜間の上空からは村と見えるように草木や照明を用いて工作するとともに、ありあわせの武器で爆撃機を迎え撃つ陣地を築いた。もとより、この偽装作戦を生き延びる可能性はカケラもないことを承知しながら。



 「オレたち、ここじゃなくて別の場所で出会っていたら、もっと楽しかったのだろうな。そうは思わないか?」



 いまや同志となったピョ少尉とリ中隊長はひととおり準備が整ったあと、そんなセリフを交わした。やがて飛来してきたアメリカ軍の爆撃機の編隊が目論見どおりに村の位置を誤認して、かれらの他にはだれもいない峠におびただしい爆弾を落としはじめ、トンマッコルが救われたことを確信すると、ふたりは満面の笑みを浮かべて燃えさかる炎の海のなかに溶け込んでいった。



 いうまでもなく、これは虚構に過ぎない。地球上で繰り広げられている現実の戦争はあくまで深刻であり、したがって、あくまで深刻な語り口で叙述されるわけだが、その結果、出口を見出せない袋小路にはまり込んでいるのではないか。このファンタスティックな戦争映画が描いてみせたとおり、もし幼い子どもにも理解できるようなフォークロアの語り口で叙述するなら、いつまでも戦火の悲劇を重ねたり、どこまでも軍備の拡張を唱えたりする声は次第に消えてなくなっていく気がするのだが、どうだろうか?   



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍