吉田大八 監督『敵』
自分のなかに
死体がのさばっている?
728時限目◎映画
堀間ロクなな
わたしはこのところ市営スポーツセンターへ通うようになって、突拍子もないことに気がついた。筋トレのマシンが並ぶフロアの一郭にはストレッチ用のマットが敷かれ、運動中のちょっとした休憩に使う利用者もいるのだが、高齢の男性がそこに横たわって目を閉じていると、まるで死体のように見えるのだ。女性や若者はじっとしていても、どこか生気が感じられるというのに。ことによったら、男性は年齢を重ねるにつれて、知らぬ間に自分のなかに死体がのさばってくるのではないだろうか?
こうした観察が、吉田大八監督の映画『敵』(2023年)を観てはっきりと裏づけられた思いがする。主人公の渡辺儀助(長塚京三)は77歳の元大学教授で、妻に先立たれてから20年ほど、東京・中野区の庭に古井戸がある日本家屋にひとりで暮らしている。朝夕は簡素な献立ながらきちんと自炊し、洗濯・掃除を怠らず、専門の17世紀フランスの演劇について雑誌の原稿を書き、ときには講演を行い、折りに触れてかつての教え子の鷹司靖子(瀧内公美)や湯島定一(松尾貴史)と交流する。なにごとにつけ沈着冷静で、現在の毎月の支出から年金と収入を引いた差額で預金高を割れば、この生活が終えるを告げるXデイがわかると公言して憚らないのだが、そんなかれがベッドに横たわっている寝姿はまったく死体そのものなのだ。
このとき、儀助はいかなる夢を見ているのか? それが、この映画のモチーフといっていいだろう。かれの夢がいつしか睡眠中の脳内からあふれだし、現実の世界と混交することでストーリーが展開していくのだから。
そのきっかけとなったのは、いまはファッション雑誌の編集者をやっている鷹司靖子が家を訪ねてきたことだ。ふたりで鶏肉料理と赤ワインのディナーでときを過ごしてうち深夜に至り、儀助の顔つきに目をやった靖子が「先生、あたしとしたいの?」と口にする。そのあとに続くシーンを、映画の原作である筒井康隆の同名小説(1998年)からの引用で描写しよう。
「汗掻いてるから、このままで」彼女は服のまま横たわった。儀助に否やはない。ワンピースの裾は前ボタンで開くのだった。飾りも何もない白いパンティが他の男との交渉がない証拠と想像できて儀助には好ましい。
挿入までの慌ただしさに反して交接は濃密だった。ふたりが大きく喘ぎはじめるまでの短い時間のうちに鷹司靖子の表情は変化していった。老化し野獣化した。快感の乏しさに儀助が疑念を抱いてこれも夢ではと思った時に眼が醒めた。甘美に夢精していた。
いやはや、77歳の男性がいまさら夢精などできるものだろうか。映画のなかでは、儀助があとで汚れたパンツを自分で洗濯する羽目になるのだが、わたしにはとうてい理解を超えた成り行きだ。
それはともかく、かれの夢はいっそう暴走していく。スナックで知りあった女子大生の菅井歩美(河合優実)のいじらしげな素振りに唆されて300万円を騙し取られたり、遠い過去に死んだはずの妻の信子(黒沢あすか)がよみがえって夫の鷹司靖子に対する振る舞いを責め立てたり……。さらには、預金の300万円を失ってXデイが計画よりも前倒しされたことで、慌ただしく財産分与の遺言書を書き上げたり、ベッドを絞首台に見立てて首を吊りかけたり……と、とどまるところを知らないありさまなのだ。それは、かれのなかにのさばる死体が、ホンモノの死体になろうともがいているのかもしれなかった。
こうしたなか、ネット上で「敵」が北から攻めてくるとの情報が蔓延して、だれもかれもが散り散りとなる。やがて正体不明の連中が中野区界隈まで押し寄せて銃撃戦を繰り広げ、筒井ワールドならではの阿鼻叫喚のスラップスティックと化したあげく、儀助はいつもどおり日本家屋の廊下にたたずんで雨模様の空を見上げているおのれを発見する。そして、そっとひとりごちるのだ。
「この雨があがれば、春になる。春になれば、きっとまたみんなに逢える。みんな、どうしてるかな。早く逢いたいな」
果たして、これは悪夢だったのか? わたしはそうは思わない。遠からずわたしのなかにも死体がのさばって、おもむろに夢を紡ぎはじめることだろう。そのとき、よもや甘美な夢精までは望まないまでも、ここに描かれたようなめくるめくドタバタ劇によって現実と夢がないまぜとなり、生と死の境界が消え去っていくのなら、それもまた大いに愉快な気がするのである。
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