水木しげる 著『墓場鬼太郎』

いまも6歳のままで
世界を闊歩しているのだろう


729時限目◎本



堀間ロクなな


 鬼太郎とわたしは同年生まれである。作者の水木しげるが東京・調布市に居を定めた1959年、貸本マンガ『妖奇伝』で鬼太郎を誕生させて、一連の『墓場鬼太郎』シリーズがスタートしたからだ。のちに、コミックやアニメで『ゲゲゲの鬼太郎』として国民的人気キャラクターとなったが、ここにはその原風景が描かれていて、同い年のわたしにとって興味の尽きないものがある。



 物語のはじまりはこんなふうだ。調布市の下石原というさびしい土地に住むサラリーマンの水木は、ある日、近所の朽ちかけたあばら家で妖怪の夫婦と知りあう。ふたりは地球上に人類が現れる以前から連綿と続いてきた幽霊族の末裔だったが、すでに不治の病に冒されていて間もなく死んでしまい、水木が葬ってやったところ、3日後に母親の墓からひとつ目の赤ん坊が這いだしてきたのを引き取って育てることにした。また、父親の遺骸からは片方の目玉だけがよみがえって赤ん坊のお守り役となった。



 やがて6年の歳月が過ぎた。鬼太郎と名づけられた少年は、魔法のチャンチャンコをまとい、タバコをふかし、高らかに下駄を鳴らして、目玉のオヤジに見守られながら、モグラの暗い穴をくぐって死人の世界へ遊びに行ったり、太古からよみがえった毛むくじゃらの夜叉に魂を抜かれてフラフラさまよったり……。



 わたしはいまにして思う。かつて6歳のころの自分もまた、怪しい冒険の日常を生きていたのではないか、と――。小さくて柔らかな存在に対して世界はまるで異なる秩序を開いて、すぐ目の前の地面の底には地獄の闇がのぞけたし、夕暮れには魔物の気配がせめぎ寄せるわれを失うのも当たり前のことで、イザとなったら頼もしい小人が味方になってくれるのだった。



 ひときわ好みのエピソードはこれだ(『鬼太郎夜話』)。その朝、鬼太郎は目玉のオヤジから「ぼんやりしてると学校におくれるぞ」といわれ、「おう、すっかりわすれてた。僕は一年生だったんだ」とつぶやいて、カラコロと下駄を鳴らして登校する。ところが、ローマ字の授業で先生に当てられても答えられず、教室のうしろに立たせられると、校庭のブランコに乗っていたねずみ男がやってきて、窓越しに「脳みそがくさってるんだ」とからかい、昼休みに目玉のオヤジが寄越したドブねずみの弁当を広げるなり、クラスメートの化け猫の娘がやってきて奪い取ってしまう……。



 わたしの通っていた東京・小平市の小学校の教室でも、鬼太郎を取り巻いて、こうした光景が毎日繰り広げられていたように思う。男の子も女の子もおたがいにみんな主役で、とうていいじめやら不登校やらが起きるはずもなかった。そんな鬼太郎とは一体、何者だったのだろう? 



 「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目に画にかくやうにはなつたが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げてもすぐ捉まるやうに、その候補者の片目を潰し足を一本折つておいた。さうして非常にその人を優遇し且つ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるといふ確信がその心を高尚にし、能く神託預言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能のしからしむ所、殺すには及ばぬといふ託宣もしたかも知れぬ。兎に角何時の間にかそれが罷んで、たゞ目を潰す式だけがのこり、栗の毬や松の葉、さては箭に矧いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考へた。目を一つにする手続もおひおひ無用とする時代は来たが、人以外の動物に向つては大分後代までなほ行はれ、一方にはまた以前の御霊の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまつて、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこのうえなしとせざるを得なかつたのである」



 いささか長い引用になったが、日本民俗学の始祖・柳田國男が『一目小僧』(1917年)のなかで解き明かしてみせた一節だ。これにしたがってひと言で要約するなら、鬼太郎とは哀しみの小さな神さまといえるのかもしれない。そう、すべての子どもたちと同じように――。さらに、柳田はこう付言する。 



 「人もいふ如く日本国民は色々の分子から成つてゐる」



 もはや大人になったわれわれの目には届かないところで、鬼太郎はいまも6歳のままで世界を闊歩しているのだろう。  



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍