ショパン作曲『夜想曲第2番』

「砂糖をまぶした牡蠣」
のような


730時限目◎音楽



堀間ロクなな


 ポーランド語では「ジャル(ザーリ)」と表現するらしい。その深い哀愁や諦観をたたえた音楽は一体、どのような感受性によって生みだされたのだろう? と、わたしはフレデリック・ショパンの『夜想曲(ノクターン)第2番』を聴くたびに首をひねらずにはいられないのだ。



 こんな遠い記憶もよみがえってくる。勤め先で営業の仕事についていたころ、取引先が信義にもとる対応をしたため、わたしは怒髪天を衝いて抗議の電話をかけたのだが、その担当者につながるのを待つあいだ受話器の向こうから流れてきたのが『夜想曲第2番』。とたんに目頭に熱いものが込み上げたばかりか泣きじゃくりそうにまでなって、相手が電話口に出る前に切ってしまった。いくら高ぶっていたとはいえ、ほんの瞬時にこれほど感情を揺さぶる力がこの曲にあったことを思い知らされた体験だった。



 ショパンが『夜想曲』第1番から第3番までをセットで作曲したのは1830~31年のことで、20歳を迎えて人生の一大転機に差しかかったタイミングだった。祖国ポーランドですでに名声を得て、ワルシャワ音楽院を首席で卒業したかれは、同級生だったオペラ歌手のコンスタンツィア・ダワトコフスカに熱烈な恋情を抱きながらひと言も打ち明けることなく、その思いをふたつの美しいピアノ協奏曲に結実させた。あまりにも雄弁な音楽と、あまりにも無垢な肉声のギャップ。その後、ロシアの専制支配のもとで風雲急を告げるワルシャワを発って、さらに広大な音楽の舞台を求めて、ウィーンからパリへと向かう旅路のなかでこれらの曲がつくられていった。



 『夜想曲』なるジャンルを創始したのは、アイルランド出身の作曲家兼ピアニストのジョン・フィールドで、左手で単純な分散和音を弾き、右手で夢見るようなメランコリックな旋律を奏でるという素朴な三部形式の小品だった。ときあたかも精密な構成原理にもとづく古典派の音楽から、自由に感情表現をめざすロマン派の音楽へと移り変わる時代にあってヨーロッパ全土で大いに流行し、若いショパンも敏感に受け止めて自己の創作に取り込んでいったものと思われる。



 「僕は、ただひとり、十二時に、ゆっくりした足取りで聖シュテファン寺院へ行った。まだ人びとは来ていない。僕は礼拝に来たのではない。ほんのひととき、この巨大な建物をみるために来たのだ。ゴシックの柱の下で、一番暗い片隅にたたずんでいた。巨大なドームのすばらしさはたとえようもない。静かだった。ただ、ときどき、聖殿の奥にあるろうそく台に点火して歩く番人の足音だけが、ぼんやりした私の意識を呼び醒ます。僕の後ろは墓、足下も墓……。僕の頭上だけには墓がない。ハーモニーが心に暗く、憂うつに拡がっていく。かつてないほど深い孤独感を感じる」(田村進訳)



 ショパンが1830年のクリスマスにウィーンからワルシャワの友人宛てにしたためた手紙の一節だ。このとめどない「ジャル」の感覚は『夜想曲第2番』に通じるものだろう。そこには、祖国の同志たちによる果敢な蜂起の行動に取り残されたいたたまれなさと同時に、ついに愛の言葉を伝えられないまま置き去りにしてしまったコンスタンツィアへの想いも尾を引いていたのに違いない。そのうえで、重ねて問いたい。こうしてクリスマス・イヴの深夜に異国の都をたったひとりでさまよい歩き、教会の墓に取り囲まれながら、頭のなかにはつぎつぎにハーモニーが浮かんでくる人物とは一体、どのような感受性の持ち主だったのだろうか?



 「砂糖をまぶした牡蠣」



 のちにパリの社交界でショパンとまみえたマリー・ダグー伯爵夫人は、そんな評言を残している。フランツ・リストの愛人で、ジョルジュ・サンドとショパンを結びつける役割を果たした百戦錬磨の女性の目に、「ピアノの詩人」はひと当たりがいいものの、決して本心を明かすことなく殻に閉じこもっている印象が強かったのだろう。ポーランド出身の偉大なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインが『夜想曲第2番』の録音(1965年)において、あえてたどたどしく口ごもるような打鍵で「ジャル」を表出してみせたのも、このあたりの事情を解き明かしているようだ。



 それにしても、とやはり首をひねりたくなる。わたしは寡聞にして、「牡蠣」に譬えられた歴史上の人物を他に知らない。  


 

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍