『琵琶湖周航の歌』
わたしの母の
青春の一頁を飾った歌
757時限目◎音楽
堀間ロクなな
わたしの母は30年ほど前に57歳で亡くなった。現在の自分がその年齢をずっと上まわってしまうと、なにやら母のほうが年下のいじらしい女性のように思い起こされてくるから不思議だ。
あれは確か、わたしが小学5年の時分だった。都営住宅の六畳間にふたりで座っていたら、ふいに母が『琵琶湖周航の歌』を口ずさんで、これは女学校の修学旅行で琵琶湖へ行ったときに船のうえで大学生に教えてもらったのだと語った。まるで乙女のように頬を染めていたから、よほどの青春の思い出なのだろう。その後、警察官の父とお見合い結婚をして、間もなくわたしと弟が生まれ、ひたすら地道な生活を送ってきたことを考えると、もしかしたら人生でただ一度の心ときめく経験だったのかもしれない。
旧制第三高等学校(現・京都大学)の学生歌として人口に膾炙してきたこの『琵琶湖周航の歌』には、ちょっとしたミステリーがある。作詞者は明らかな一方で、作曲者がだれなのか、長らくわからなかったのだ。
その作詞者の小口太郎は、1897年(明治30年)に長野県湊村(現・岡谷市)で生まれ、いったん地元の小学校の代用教員になったあとに、第三高等学校へ入り直して水上部(ボート部)に所属した。そして、1917年(大正6年)6月28日、恒例の琵琶湖遠漕の際に湖畔の宿で、みずからがつくった詞を先輩がどこからか流用した曲にのせてみんなで合唱したのが『琵琶湖周航の歌』誕生のいきさつだという。のちに小口は東京帝国大学(現・東京大学)理学部に進み、同大学の航空研究所の嘱託となったが、1923年(大正12年)に陸軍松本連隊に入営して、翌年28歳で病没したので、かれにとってこの詞は束の間の人生の輝きの記念碑ともいうべきものだったろう。
われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
のぼる狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば
松は緑に 砂白き
雄松(おまつ)が里の 乙女子は
赤い椿の 森陰に
はかない恋に 泣くとかや
上に述べた事情により、この歌が広く愛唱されるようになってからも作曲者については正体不明の状態が続いたが、現在では吉田千秋だと判明している。
かれは1895年(明治28年)に新潟県小合村(現・新津市)で、高名な歴史地理学者・吉田東伍の次男として生まれ、やがて一家が東京へ移ったのにともない、東京農科大学(現・東京農業大学)に進んだものの、肺結核のために退学し、郷里での療養生活を余儀なくされる。そうした苦難の日々のなかで、独学で作曲をするようになり、1915年(大正4年)、イギリスの詩を自分で訳して曲をつけた『ひつじぐさ』という作品が雑誌『音楽界』8月号に掲載されて、これが偶然にも第三高等学校の水上部員の目に留まったというわけだ。その4年後の1919年(大正8年)に吉田もまた、24歳の若さで世を去る。したがって、自分の曲が『琵琶湖周航の歌』に化けたとはつゆ知らず、終生、琵琶湖を目にしたこともなかったというが、死の間際に「彼岸」と題して詠んだ和歌には、あたかも小口太郎の作詞に呼応するかのような息づかいが聞き取れないだろうか。
はても無き浮世の荒海おしわけてかなたの岸に行かざらめやは
もとより、わたしの母はこうした『琵琶湖周航の歌』にまつわるエピソードを知るよしもなかったろう。ただ、青春のかけがえのない一頁を飾る歌として大切にしてきたのに違いない。そんないじらしい胸の内に思いをいたすとわたしの口元もほころびかけるのだが、ふと、別の考えが兆す。あの冗談好きだった母ならば、こうした作り話で小学生の息子を煙に巻いて楽しむぐらいのことはやってのけたかも、と――。
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