太宰 治 著『右大臣実朝』&小林秀雄 著『実朝』

そのとき鴨長明は
ぺらぺらと饒舌をふるい


758時限目◎本



堀間ロクなな


 太宰治の『右大臣実朝』にはひときわ奇体な人物が登場する。鴨長明。鎌倉幕府三代将軍・源実朝の人生を、『吾妻鏡』からの引用文を差し挟みながら、かつての近習が回想するという形式のこの小説で、実朝が20歳を迎えた建暦元年(1211年)10月に突如、鴨長明(蓮胤)が鎌倉に姿を現す。『吾妻鏡』にはわずか数行の記述しかないのだが、太宰の作品においては大いにクローズアップされてただならぬ存在感を発揮するのだ。



 京から遠路足を運んできた老人は世捨人を自称しながら、都の和歌所の寄人でもある参議・明日香井雅経の仲介で将軍家との面会におよぶと、ぺらぺらと饒舌をふるった。そして、少壮歌人としても知られた実朝の、ドノヨウナ和歌ガヨイカ、という問いかけに対してこのように答えるのだ。



 「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く気取つた意味など持たせるものでないやうな気も致しまする。〔中略〕さきごろ参議雅経どのより御垂教を得て、当将軍家のお歌数十首を拝読いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな気が致しまして、雅経どのからのお誘ひもあり、老齢を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀抜の歌人の御身辺に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御様子が心許なく、かくては真珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ気持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけでもござりまする」



 要するに、将軍の和歌の指南役になってやろうとの自己推薦の弁。この臆面もない申し出に実朝が笑いながら、ナカナカ、世捨人デハナイ、と応じる一幕には、皮肉なユーモアが横溢して、いかにも太宰の面目躍如といった趣きなのだが、それにしても、こうした鴨長明像をどこからこしらえたのだろうか?



 以下は、あくまで仮説である。太宰は太平洋戦争下の昭和17年(1942年)の秋からこの小説に取り組み、将軍の地位にあって和歌だけを心のよすがとして孤独な歳月を送った実朝によほど思い入れを持ったのだろう、さんざん推敲を重ねたあげく、翌年9月にようやく出版に至った。その間に、ひとつの偶然が働いた可能性がある。ときあたかも作品の仕上げに悪戦苦闘していたタイミングの、昭和18年(1943年)2月から雑誌『文学界』に小林秀雄の『実朝』が連載されて、当然、太宰はむさぼり読んだはずだ。これは近代批評の方法論によって実朝の和歌を評価しようとする試みで、たとえば「神といひ仏といふも世の中の人のこゝろのほかのものかは」の歌をめぐって、つぎのような文章が綴られていた。 



 「扨(さ)て、『神といひ仏といふも』の歌も亦(また)、当時として珍重すべき思想といふ様なものではなく、たゞこの純真な眼差しが、見たもの驚いたものではあるまいか。彼は、たゞさういふ風に見たのである。見たものについて考へた歌ではない。彼は確かに鋭敏な内省家であつたが、内省によつて、悩ましさを創り出す様な種類の人ではなかつた。確かに非常に聡明な人物であつたが、その聡明は、教養や理性から来てゐると言ふより寧(むし)ろ深い無邪気さから来てゐる。僕にはさういふ様に思はれる」



 まさしく小林ならではの文章だが、太宰は実作者の立場からこうした批評家のさかしらげな物言いに神経を逆撫でされたのではないか。のみならず、そんな批評家のありようを作中の鴨長明像に重ねて揶揄してみせたのではなかったか。そしてまた、小林のほうものちに『右大臣実朝』を目にして作者の秘めた意図を汲み取ったのではないだろうか? この仮説を実証するものはないけれど、ことによると、ともに東京帝国大学(現・東京大学)文学部フランス文学科出身で、詩人・中原中也と深い関係を結び、上記の『文学界』を拠点のひとつとした両者が、このあとそれぞれに文壇に大きな地歩を築きながら、おたがいについてまったく語ることのなかった事実がひとつの傍証といえるかもしれない。



 ただし、太宰は作品のなかでたんに鴨長明を貶めたわけではなかった。かれが鎌倉を去って京に戻り、『方丈記』で文名を挙げたことが報告されたのちに、語り手の元近習にこう述懐させているからだ。そこには実作者に対する批評家の役割への的確な認識が見て取れるように思えるのである。



 「あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも将軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或ひは之(これ)は私の愚かな気の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お変りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、老人と申しませうか、奇人と申しませうか、その悪行深い体臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます」



 

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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍