パウル・レニ監督『笑ふ男』
われわれはなぜ
「笑い顔」を恐れるのか
764時限目◎映画
堀間ロクなな
フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの小説を、ドイツ表現主義のパウル・レニ監督がサイレント映画に仕立てた『笑ふ男』(1928年)は、のちの『バットマン』のヒーローの最大の敵ジョーカーの起源として知られている。のみならず、わたしは幼いころに震撼させられた楳図かずおの怪奇マンガ『笑い仮面』などのルーツもここにあるのではないかと考えている。
舞台は、17世紀のイングランド。国王ジェームズ二世は佞臣バーキルフェドロに唆されて政敵のクランチャーリー卿を処刑する。さらに、悪徳外科医を使って、遺児グウィンプレンが「父親の愚行を永遠に笑うように」口を大きく開いて歯を剥きだしにした顔つきに整形手術したのである。そんな少年は旅芸人の座長に拾われて、盲目の少女デアとともに育てられることに。やがて歳月が流れ過ぎて、すっかり成長したグウィンプレン(コンラート・ファイト)はいまでは一座の異形の道化師として人気を博し、ともに舞台に立つデア(メアリー・フィルビン)を深く愛するようになっていたが、みずからの「笑い顔」への葛藤に苦しんでいた……。
つまり、この映画は同じユゴー原作の『ノートルダムのせむし男』さながらのレッキとしたメロドラマなのだが、それにもかかわらず、公開以来、もっぱらホラー映画と受け止められてきたのは主人公の「笑い顔」のせいだろう。実際、作中ではグウィンプレンが姿を現すと、それを見た人々が笑いだすばかりでなく、恐れおののく叫び声も挙がってパニックを引き起こす場面が描かれる。かくいうわたし自身、背筋の引き攣るような感覚を味わわずにいられない。
これは一体、どうしたわけだろう? もちろん、整形手術によって加工された人工的な顔つきへの無気味さはあるにせよ、しかし、それが「泣き顔」や「怒り顔」だったら不快感を誘っても、こうした恐怖心を掻き立てることはないのではないか。おそらくは「笑い顔」に固有の理由があると思われるのだ。
そこで、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの著作『笑い ――おかしみの意義についての試論』(1900年)をひもといてみる。これは、モリエールの喜劇などを材料に、人間に特有の笑いという現象を多角的に分析したものだが、そのなかでわたしが注目したのは「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである」(林達夫訳)の一文だ。確かに、チャップリンの映画でもしばしばこの手法が使われていたことを思い出す。ベルクソンもさまざまな事例に言及したあと、こんなふうに議論を引き取ってみせた。
「そこで、最後にもう一度、我々の中心的形象に立ち帰ってみよう。すなわち生けるものの上に貼りつけられた機械的なものに。ここで特に問題になっていた生ける存在は、人間的存在、すなわち人であった。機械的装置はこれに反して物である。だから笑いを催させたものは、もしこの形象をこの角度から眺めようとすれば、人が一瞬物に変形したことである。そこで機械的という明確な観念から物一般というもっと漠然とした観念に移ってみよう。それはいわば前者の輪郭をぼかして得られるもので、そしてそれは我々を次の新しい法則に導くものである。すなわち、人が物の印象を我々に与えるすべての場合に、我々は笑いを催す(太字は原文の強調)」
なるほど、人間的存在(人)があたかも機械的装置(物)に変形したかのように見えるときに笑いが込み上げてくるとは、だれしも容易に首肯できるところだろう。それは半面、こうしたことも意味しないか。自分の面前で相手が大口を開けて笑っていると、われわれはおのれが人間的存在ではなく、何やら機械的装置めいたものに受け止められていると感じてしまう、と――。すなわち、映画のなかのグウィンプレンが(あるいは、『バットマン』のジョーカーが)こちらに「笑い顔」を向けるたびに、条件反射のごとく大なり小なり恐怖心を刺激されるゆえんと理解できるのである。
「神さまが私の目を閉ざしてくださったおかげで、私にはあなたの真実の姿を見ることができるのよ」
盲目のデアはそう告げて、自分の顔立ちに苦悩するグウィンプレンを抱擁する。そうなのだ、いったん目をつむれば「笑い顔」がもたらす恐怖心はたちまちきれいさっぱり消えてしまうだろう。それは、われわれが日常生活において、案外、みずからの人間的存在について確信を持てないでいることを示唆しているのかもしれない。
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