ブルックナー作曲『交響曲第1番』

「小生意気なあまっちょ」
そんな交響曲に鼓舞されて


765時限目◎音楽



堀間ロクなな


 もう10年あまり以前のことだ。営業の仕事でJR中央線の荻窪駅界隈へ出かけ、取引先にさんざんゴマをすったあとでくたびれた足を引きずっていたら、ふいに小さな古本屋が目に入って立ち寄った。ひとしきりうろうろして小津映画の書籍を買い求めたりするうち、カウンターに腰かけた主人の背後のラジオから流れてくるオーケストラの演奏に気持ちの高ぶりを覚えた。その思いがずっとあとまで尾を引いたので、ぜひとも楽曲の正体を確かめなければならないと、翌日、わたしは会社のデスクのパソコンで調べて店に電話をかけたところ、休業日らしくだれも出なかった。



 まあ、落ち着いて考えてみれば、ふらりと店を訪れた一見の客からラジオが流していた演奏について問い合わせられても、相手は困惑するだけだったろう。そこで、自力で推理を働かせることにした。あのとき耳にしたのは、管弦楽の組み立てから交響曲の一部分なのは明らかで、まったく知らないようでいてよく知っているような音楽だった。わたしにとって、こうした奇妙な言い方に当てはまる作曲家がひとりだけ存在する。



 アントン・ブルックナー。



 この19世紀オーストリアの作曲家には、第1番から未完の第9番までの交響曲があるが、おびただしい異稿を含むうえ、さらに第0番、第00番といった習作もあって、わたしなどにはとうてい全容を見渡すことなど不可能だ。一方で、それらは基本的に同じボキャブラリーのもとに成り立っているために、しばしば「究極のワンパターン」と評されるとおり、いずれも似たり寄ったりの印象を受けるのだ。わたしがこれまで聴いてきたのはもっぱら第3番以降だったから、それ以外の交響曲に答えが見つかるかもしれないと考えて、CDを取っ替え引っ替え当たってみたところ、問題の楽曲はどうやら第1番の第3楽章だったらしいとの結論に達した。



 これは、リンツの大聖堂のオルガニストをつとめていたブルックナーが1865年1月に作曲を開始して翌年4月に完成し、41歳にして初めて番号を与えた交響曲だ。そこには、すでに独自のボキャブラリーの萌芽がちりばめられながら、同時にいかにも気負い立った荒々しいばかりのパッションが横溢して、こうした特徴は第3楽章のスケルツォでも顕著だ。のちに、作曲者自身がつぎの言葉で自嘲したという。



 「小生意気なあまっちょ」



 ことほどさように、ブルックナーにとって人生で初めてといっていいほどの熱烈な感情が発露したのには理由がある。曲づくりの作業のまっただなかにあった1865年5月、かれはミュンヘンで大ピアニストのアントン・ルービンシュタインと名指揮者ハンス・フォン・ビューローに出会い、さらには神のように崇め奉っていた巨匠リヒャルト・ワーグナーとも面会が叶って励ましの言葉をもらい、楽劇『トリスタンとイゾルデ』の初演を体験することさえできたのだ。まさしく至福のビッグ・イベントが、あたかも天に向かって高笑いするかのような作品へとかれを導いていったと思われる。



 それだけにとどまらない。この交響曲の完成から間もない1866年8月、ブルックナーは音楽のレッスンをしていた女生徒のひとり、ヨゼフィーネ・ラングという肉屋の娘に恋情を燃え立たせた。そして、あろうことか、金時計と祈祷書をいきなり送りつけてプロポーズしたのだ。おそらく両親の反対もあったのだろう、ただちに贅沢なプレゼントが相手から突き返されてあっけない結末に終わったことはいうまでもない。ブルックナーは深く傷ついたとされるものの、ともあれ、この悲劇とも喜劇ともつかぬ一幕も当時のかれのただならぬ心境を如実に伝えるものだろう。



 すなわち、『交響曲第1番』もまた、この大器晩成の作曲家が迎えたあまりにも遅い青春の記念碑だったのであり、そこに込められた放埓なパッションが150年の隔たりを超えて、あの日、営業の仕事にくたびれていたわたしを鼓舞したというわけらしい。以来、折りに触れて愛聴して現在に至っているのだが、高名な指揮者があまり手をつけないなかで、とくにこの曲を繰り返し録音したクラウディア・アバドがウィーン・フィルを指揮したライヴ演奏(1996年)のCDをかけることが最も多い。 


   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍