大江健三郎 著『飼育』
すばらしい家畜、
天才的な動物
766時限目◎本
堀間ロクなな
大江健三郎の膨大な作品群で、最初期の短篇小説に最も愛着を抱いているのは恐らくわたしだけではあるまい。1958年に当時史上最年少の23歳で芥川賞を受賞することになった『飼育』も、学生時代に初めて読んだときの衝撃がいまだに生々しくよみがえってくる。
ストーリーは、大江の出身地を思わせる四国山中の小さな村で、太平洋戦争のさなかに起こった忘れがたい出来事を回想するというもの。
戦時下といっても、このあたりにはものものしい雰囲気などまるでなくて、小学生の「僕」は弟や友人の兎唇(みつくち)と気ままに遊び暮らしていた。ところが、夏のある日、アメリカの軍用機が近くに墜落して、猟師の父親たちが捜索に出かけると、ひとりだけ落下傘で脱出して生き残ったという黒人兵を連れて戻ってきた。その取り扱いをめぐって県から指示がくるまでのあいだ、かつて養蚕に使っていた倉庫でかれの「飼育」がはじまり、「僕」は父親のあとについて世話をする係になる。弟や兎唇の羨望の眼差しを浴びながら……。
こうして、「僕」が初めて黒人兵に食事を与える場面がやってくる。大江の文章のなかで、わたしの脳裏にいちばん深く刻み込まれているものだ。
しかし、黒人兵はふいに信じられないほど長い腕を伸ばし、背に剛毛の生えた太い指で広口瓶を取りあげると、手もとに引きよせて匂いをかいだ。そして広口瓶が傾けられ、黒人兵の厚いゴム質の唇が開き、白く大粒の歯が機械の内側の部品のように秩序整然と並んで剥き出され、僕は乳が黒人兵の薔薇色に輝く広大な口腔へ流しこまれるのを見た。黒人兵の咽(のど)は排水孔に水が空気粒をまじえて流入する時の音をたて、そして濃い乳は熟れすぎた果肉を糸でくくったように痛ましくさえ見える唇の両側からあふれて剥き出した喉を伝い、はだけたシャツを濡らして胸を流れ、黒く光る強靭な皮膚の上で脂のように凝縮し、ひりひり震えた。僕は山羊の父が極めて美しい液体であることを感動に唇を乾かせて発見するのだった。
一読して明らかなとおり、この装飾過多の文章はとうてい小学生の「僕」のものではなく、いわば10年あまりが経過したのちに23歳となった「私」があらためて再構成した過去の記憶だ。ふつう回想といったらそのときの印象をありのまま伝えようとするはずなのに、なんだってこうした不思議なやり方が行われたのだろうか? 実は、そこにこそ、この作品のポイントがあるようにわたしは思う。
ともあれ、いつまでたっても県からの指示が届かないうちに、黒人兵は養蚕の倉庫から出て、村の子どもたちと親しく交流するようになり、「僕」にはその光景がこんなふうに映るのだった。
僕らは体を下肢に支えることができなくなるまで笑い、そのあげく疲れきって倒れた僕らの柔らかい頭に哀しみがしのびこむほどだった。僕らは黒人兵をたぐいまれなすばらしい家畜、天才的な動物だと考えるのだった。僕らがいかに黒人兵を愛していたか、あの遠く輝かしい夏の午後の水に濡れて重い皮膚の上にきらめく陽、敷石の濃い影、子供たちや黒人兵の臭い、喜びに嗄(しゃが)れた声、それらすべての充満と律動を、僕はどう伝えればいい?
僕らには、その光り輝く逞しい筋肉をあらわにした夏、不意に湧き出る油井(ゆせい)のように喜びをまきちらし、僕らを黒い重油でまみれさせる夏、それがいつまでも終わりなく続き、決して終わらないように感じられてくるのだった。
もちろん、ここで黒人兵を「たぐいまれなすばらしい家畜」や「天才的な動物」と見なしているのも小学生の「僕」ではなく、現在の23歳の「私」だ。かれは一体、何を「飼育」していたのだろう? 天使――。あの夏の日に、幼い「僕」の目の前に突如、空から降ってきたアメリカの黒人兵がみずからを新たな世界へと導く天使であったことを、いまになって「私」は認識して小説の主題にしたのだ、とわたしは思う。
そう、やがてかれのもとに大江光というもうひとりの天使が舞い降りて、その「飼育」が生涯の文学的主題となっていったように……。
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