R・シュトラウス作曲『ばらの騎士』
どうしてそこまで
厚顔無恥なのか
769時限目◎音楽
堀間ロクなな
いやはや、このふてぶてしさは! 古今東西のオペラのなかで、リヒャルト・シュトラウス作曲の『ばらの騎士』(1911年初演)に登場するオックス男爵ぐらい厚顔無恥なキャラクターは他に存在しないだろう。
18世紀のマリア・テレジア治下のウィーンが舞台。元帥夫人マリー・テレーズのもとに、従兄にあたるくだんのオックス男爵が訪れて、このたび富裕な商人ファニナルの娘と結婚する運びになり、ついては上流社会のしきたりとして銀のばらを届ける「ばらの騎士」を斡旋してほしいと頼むのだが、その言い草がただごとではない。本来は花婿が支度金を払うべきところ、おのれの貴族の血を分けてやるからは逆にごっそり持参金をせしめてやると息巻くのだ。
元帥夫人は年若い愛人のオクタヴィアンを「ばらの騎士」に仕立て、数日後、ファニナル家の婚約式に派遣したところ、かれは花嫁のゾフィーにひと目惚れしてしまう。そこへやってきたオックス男爵は花も恥じらう乙女に向かって下卑た言葉を吐き散らし、あまりにも無礼な態度に立腹したオクタヴィアンが決闘を申しでると、わずかに剣を交わしただけでたちまち音をあげながら、こうしたドタバタ劇も楽しみのうちとばかり、ワルツのリズムにのせて意気揚々とうたうのである。
わしがいないと毎日さびしいぞ
わしといっしょなら夜も短いぞ
まったくもって、ここまで臆面のない立ち居振る舞いはどうしたわけか?
そこで、あらためてドラマの構図を眺めるなら、主役をなす4人は、いまや人生の真っ盛りにある元帥夫人&オックス男爵と、これから人生に踏みだすオクタヴィアン&ゾフィーというコンビによって進行していき、元帥夫人の計らいでオックス男爵の婚約は解消され、オクタヴィアンとゾフィーが結ばれてバランスの取れた大団円に至る。
ところが、これを演じる歌手の側から見ると事情が異なる。元帥夫人をうたうのは成熟した女性ならではのソプラノ、その愛人のオクタヴィアンはタカラヅカの男役のようなメゾ・ソプラノ、花嫁のゾフィーは処女らしいリリカルなソプラノで、そうした女性たちの声、声、声を相手に、オックス男爵をうたうバスの男性歌手がひとりで立ち向かうのだから、大いにバランスを失しているといわざるをえないだろう。
かくして、双方の釣り合いを取るために開き直った厚顔無恥のありようが求められ、その意味でこの長大なオペラを支える真の主役はオックス男爵なのだ。われわれ世の男性もまた、ふだん女性たちの声、声、声の前になす術もなくうろたえるばかりとすれば、多少なりともかれの立ち居振る舞いを見習うべきかもしれない。
わたしがこれまで親しんできた『ばらの騎士』の録音や映像では、オットー・エーデルマン、マンフレート・ユングヴィルト、クルト・モルといった面々がオックス男爵に扮して名唱を聞かせてきた。それらは貴族にふさわしく堂々としていながらどこか間が抜けていて、いかにも憎めない厚顔無恥ぶりなのだ。しかし、ここにもうひとり、まったく別のタイプの歌手が存在する。
ルートヴィヒ・ウェーバー。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『神々の黄昏』(1876年初演)で、英雄ジークフリートを殺して世界支配をもくろむハーゲンを持ち役とするウィーン出身のバスだ。そんなかれがクレメンス・クラウス指揮のバイエルン国立歌劇場(1942年)やエーリッヒ・クライバー指揮のウィーン国立歌劇場(1954年)の『ばらの騎士』のレコードでオックス男爵をうたっているのだが、そこには厚顔無恥だけではない、いざとなったらケツの青いオクタヴィアンやゾフィーなど眉ひとつ動かさずひねりつぶしてしまうだろう、ハプスブルク帝国の貴族が秘めていた冷酷非情な本性も……。
これで終わりか
もう終わりなのか
オックス男爵が最後に発するセリフは、悪の化身ハーゲンの呪詛の言葉と響きあって、わたしを戦慄させるのである。
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