仲代達矢 主演『切腹』
その狂気を含んだ演技が
突きつけてくるものは
773時限目◎映画
堀間ロクなな
昨年(2025年)92歳で他界した仲代達矢の代表作のひとつ、『切腹』(橋本忍脚本/小林正樹監督1962年)は、仲代扮する元・芸州広島福島家の家臣・津雲半四郎が江戸外神田の井伊家上屋敷にやってきて、こんな口上を述べるところからはじまる。
「主家の没落いたしたのが元和5年、それより国許を出て江戸に移り住み、とある裏店に居を構え、細々と暮らしを立てるかたわら、あれこれ伝手を求めて再度の主取りを望んで参ったが、いかようにあがいてもこの泰平の世の中、しょせんは思うに任せぬ次第。志を得ぬまま無為に日々を送るうち、生活も日々窮迫の度を加え、もはやこれ以上の辛抱も相成りかねぬ。されば、このまま陋巷に呻吟して生き恥をさらすより、潔く腹を掻っ捌いて相果てようと思うゆえ、なにとぞ願わくば当家の玄関先を貸してはいただけまいか」
寛永7年(1630年)5月のことだ。当時、江戸市中に充満していた浪人どものあいだには、こうして諸家へ押しかけては応対に困った相手から金品をせびり取る行為が流行っていた。実は、津雲半四郎の女婿・千々岩求女(石浜朗)もこの年の1月、ドン底の生活のなかで生後間もない赤ん坊が重態となって矢も楯もたまらず、井伊家を訪れて同じ振舞いにおよんだのだった。すると、案に相違して、家老・斎藤勘解由(三國連太郎)の思惑から本当に切腹させられる羽目に陥ってしまい、求女はとうに刀も質入れして腰に竹光を差していたため出直すことを願ったものの許されず、介錯役の沢潟彦九郎(丹波哲郎)ら3名はそうと知って嘲り笑い、あえて竹の刀を使わせて苦悶の果てに舌を噛み切ったところで首を落とした……。
映画は、こうして日本固有の武士道の作法と見なされ、世界にも広く知れ渡ったハラキリの不条理を暴いていくのだが、しかし、そもそも自分の刀で自分の腹を切り裂くといった行為に精神性など存在するのだろうか?
千葉徳爾著『切腹の話』(1972年)によれば、切腹について言及した最古の文献は『播磨国風土記』(713年)で、その賀毛郡川合里の条にある「腹辟(はらさき)沼、右 腹辟と号(なづ)くるは花浪の神の妻(め)淡海(おうみ)の神、己が夫(せ)を追わむとして此の処に至り、遂に怨み憤(いか)りてみずから刀もて腹を辟き、この沼に没(い)りき。故に腹辟沼と号く。その沼の鮒等今に五臓(はらわた)なし」の記事だという。すなわち、夫の花浪山の神のあとを妻の淡海の神が追ってきたけれど、ついに追いつけなかったので、怨み怒って切腹し、それでも死にきれないて沼に入って死んだとのこと。沼の魚にはらわたがないのは、女神が激情に駆られてみずから内臓を掴みだして腹腔を空にしたことを示していよう。
このおどろおどろしい描写を起点とするなら、求女が妻子を思って遂げた無残な最期のほうこそ、本来の切腹に近いようにも思えてくる。もとより、津雲半四郎はそんな女婿が被った非道に報復するべく乗り込んできたのであり、庭先にしつらえられた白絹に座してあらいざらい胸の内をぶちまけると、ただちに刀を抜いて井伊家の者どもに襲いかかって、4名を斬り伏せ、8名に重傷を負わせたのち、その切っ先をおのれの腹に突き立てて息絶えたのだ。しかし、家老・斎藤勘解由にとってはまだケリがつかない。先に求女を惨殺した沢潟彦九郎ら3名は上屋敷に居合わせず、この期におよんで沢潟は自決、他の両人は病気と称して自宅に蟄居しているとの報告を家臣から受けて、かれは凄まじい怒気を発する。
「大馬鹿者! なぜその場を去らずに切腹を申しつけぬ。ただちに引き返し、2名の者には切腹を申しつけ、いや、手の利いた者を同道して、尋常の最期を覚悟させねば無理腹でも切らせろ。なお、この2名の者、いや、沢潟を含めてすべての扱いは切腹にあらず、病死である。たわけが! いまだ政道に相慣れぬ者ならともかく、分別盛りのそちまでがなぜ、なぜ気づかぬ。大馬鹿者!」
なるほど、こうした成り行きは実のところ、われわれがふだん見慣れているものではないだろうか。大なり小なりの組織が不祥事を出来させた際、真の権力者は高みに立ったまま、組織防衛の建て前のもとに、現場の者どもに責任を負わせて詰め腹を切らせることで事態の収束を図るとは――。もし、これもまた日本固有の武士道の作法と見なすなら、切腹という行為よりもずっと不条理なのに違いない。映画の撮影当時、まだ29歳の若さだった仲代達矢の狂気を含んだ演技は、この社会に生きるわれわれの狂気そのものを突きつけてくるようなのである。
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