ドヴォルザーク作曲『チェロ協奏曲』

私をこの喜びと
この苦しみで満たしてちょうだい


839時限目◎音楽



堀間ロクなな


 ドヴォルザークの『チェロ協奏曲』(1895年)について、ブラームスは死を間近にして「人の手がこのような協奏曲を書きうることに、なぜ気づかなかったのだろう?」と口にしたというが、わたしはこの言葉はまさしく核心を突いていると思う。



 アントニン・ドヴォルザークは1841年にプラハの北方、ボヘミアの小さな村の宿屋を兼ねた肉屋の7人きょうだいの長男に生まれた。両親とも大の音楽好きだったせいで幼いころからヴァイオリンに親しんだものの、総領息子としてあくまで肉屋の専門的な修業を積んで、14歳のときに同業者組合の技術習得証書(ディプロム)を得た。すなわち、かれは肉屋がのちに作曲家となったわけで、そのへんクラシック音楽史においてブラームスはもとより他にあまり例を見ないだろう。



 こうした履歴は、動物の生死を扱う仕事を通じて、ドヴォルザークのなかに「いのち」と向きあう図太いリアリズムと、図太いロマンティシズムの双方を育んだのではないか、とわたしは想像する。それはたとえば、かれと初恋の相手ヨセフィーナ・チェルマーコヴァーの関係にも明らかな気がするのだ。



 次第に才能を認められたるドヴォルザークは、プラハの劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となり、24歳のときに新人女優のヨセフィーナにひと目惚れしたものの、間もなく相手は伯爵家に嫁いでしまった。当然ながら音楽家のタマゴとレッキとした貴族では比較のしようもない話で、だれもが体験する失恋のはずだったが、その後の人生の選択が常人とはいささか異なった。やがてプラハの教会のオルガニストとなり、本格的な作曲活動をはじめた32歳のかれは、たまたま合唱団にいたヨセフィーナの妹と会うと、その18歳のアンナにすぐさまプロポーズして結婚したのだ。むろん、そこには彼女に対する愛情があったにせよ、同時に、ヨセフィーナと晴れて身内の関係を結べることも意図されていたのではないか?



 というのも、アンナとのあいだに初めての女児が生まれると、妻の名前をつけるのが当時の慣習だったにもかかわらず、ドヴォルザークはあえてヨセフィーナと命名して周囲を驚かせた。しかし、その女児を含む3人の子どもが相次いで早逝してしまい、かれは悲しみを乗り越えるためにオラトリオ『スターバート・マーテル(悲しみの聖母)』(1880年初演)を完成させてヨーロッパじゅうから賞讃を博し、以後、アンナ夫人とのあいだには新たに6人の子どもをなした……。こうした成り行きに、わたしは「いのち」をめぐる図太いリアリズムとロマンティシズムの両立を見て取らずにはいられない。



 さて、『チェロ協奏曲』だ。周知のとおり、ドヴォルザークは世界的な名声をかちえた1892年、51歳のときに破格の条件でニューヨークの音楽院の院長に迎えられてアメリカ大陸へ渡り、この地で出会った黒人霊歌やネイティヴアメリカン(インディアン)の音楽に強い刺戟を受けて、短期間に『交響曲第9番〈新世界より〉』や『弦楽四重奏曲第12番〈アメリカ〉』などを発表する。そして、2年が経った休暇でボヘミアに帰郷して、伯爵夫人のヨセフィーナと再会したのをきっかけに、アメリカで書きはじめられたのが古今のチェロ協奏曲中の最高傑作とされるこの曲だ。



 このときヨセフィーナは胸を患ってすでに死期の迫った状況にあり、ドヴォルザークは第2楽章で独奏チェロに『私をひとりにして』の旋律をうたわせ、やがて彼女が現実に天に召されると、葬儀のあとですでにできあがっていた第3楽章を書き改めて、同じ旋律にもとづくフィナーレに差し替えたという。このほの暗い哀愁を帯びた歌曲は、遠い昔、みずからがメリブロック=シュティーラーの詩に曲をつけたもので、若い彼女がことのほか愛唱した思い出の作だった。



 私をひとり 夢の中へと入って行かせて

 この歓びを邪魔しないで 私の心の中の

 私をこの喜びと この苦しみとで

 満たしてちょうだい あなたに出会ってからの!

 (藤井宏行訳)



 かくして、ドヴォルザークはついに初恋の相手ヨセフィーナとふたりだけの世界に入ることができたのだろう。ブラームスが嘆息したように、おそらくこの『チェロ協奏曲』は他の人物の手では到底つくりえない音楽だったのに違いない。



 【追記】

 この曲のレコードでは、ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)とセルジュ・チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団によるライヴ録音(1967年)がドヴォルザークのヨセフィーナに対する思いを切々と伝えてきて、わたしは涙なくしては聴けません。 




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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍