どうして、この子はこんななの?

あれはもう、10年以上前の話。
大学生の時のこと。

とある学校で、3週間の教育実習があった。
担当した子どもたちは、ピカピカの小学一年生。
実習中、遠足で近くの公園に行き、男の子と、アスレチックで遊んでいたときのことだった。


その男の子は、ダウン症で知的障害も重い。
近くで遊んでいた小学生の女の子が、ダウン症の彼を見て、
『どうして、この子はこんななの?』
と、話しかけてきた。


正直に言うと、ダウン症は独特な顔つきだし、彼も知的障害も重いが故に、意志疎通もなかなか難しい。


声をかけてきた女の子は、奇声を発しながら、私とアスレチックで遊んでいる彼を、不思議に感じたらしい。
その女の子も、おそらく小学一年生くらい。きっと、障害のある人たちとは関わったことなんてなくて、純粋に不思議に思ったから、声をかけてきたに、ちがいない。
でも当時の私には、適当な返事が見つからなかった。
あのときなんて答えればよかったのか?と、今でも適当な返事が見つからないでいる。


その時、小学一年生だったその男の子は、今年高校三年生になった。
声をかけてきた女の子も、高校生か大学生になっているはずだ。


数年前、相模原の障害者が暮らす施設で、事件が起きた。
たしかに現実の当事者たちは、知的障害がある故に適切な判断や自立して暮らていくのは難しい。
でも苦しいのは、保護者ではないだろうか。
だって、自分の子どもたちには五体満足であってほしいから。

この10年間教員として感じたことは、生きる価値を見つけるのは、当事者たちである。
生きる価値は、障害があってもなくても、本人しかわからないはずだ。
この社会は、どうしても学歴があって、健康で、頭がよくて優秀な男性が、基準に作られている。そこからはみ出た人間は生きにくい。


でもあの時、答えは出なかったけれど、一緒に公園でつないだ男の子の手は、確実に温かかった。

令和の時代には、話かけてきた女の子への答えが見つかるだろうか?
つないだ手の温もりだけは、忘れない時代であってほしい。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍