安部公房 原作/勅使河原宏 監督『砂の女』
「巣ごもり」の以前と以後で
世界の顔つきはすっかり変わるだろう
177時限目◎映画
堀間ロクなな
まさしく今日の状況に刃を突きつける映画ではないか。安部公房がみずからの小説をもとに脚本を書き、のちに草月流3代目家元となる勅使河原宏が監督した『砂の女』(1964年)だ。
昆虫採集を趣味とする教師の男(岡田英次)が海辺の砂丘へやってくる。新種のハンミョウを探してさまよううちに日が暮れ、通りすがりの村人の案内により近辺で泊まることにする。そのあばら家は砂地を擂り鉢状にえぐった地形の底にあり、縄梯子にすがって下りていくと、ひとりの女(岸田今日子)がもてなしてくれた。翌朝、男が出立しようとしたところ縄梯子が消え失せていて、必死に這い上がろうとしたものの砂の壁面はもろくも崩れるばかりで地上まで辿りつけない。女を問いつめると、つねに降ってくる砂を毎日かき出さなければならない、それにはどうしても男手が必要なのだ、との答え。男は村の連中に謀られて蟻地獄に落ちたことを知った。
われわれはふだん、網の目のように張り巡らされた社会秩序のもとで、とくに足元を気に留めることもなく安住している。だが、ひとたび網の目に綻びが生じてドロップアウトしてしまうと、そこにはいまも荒涼とした風土が広がっているのかもしれない。
地の底で男の日常生活がはじまる。宵闇の訪れとともに、女といっしょに砂かきにいそしむ。その代償として、村から水や食料、酒、煙草が支給される。夜通しの作業が終われば、ふたりは砂にかぶれないよう素っ裸になって横たわり、おたがいの肉体をまさぐりあい啜りあう。勅使河原監督の感性が捉えた砂の諸相はあまりにも美しく、その砂を汗だくの肌にまとわりつかせたふたつの肉体の運動もまた妖しく美しい。
およそ3カ月が経過したころ、男は思い立って、砂地に木桶を埋めると新聞紙で覆って煮干しを設置した。女に向かって「希望だ」と告げる。カラスを捕まえるための罠で、もし成功したら、その脚に救助を求める手紙をつけて空に放つのだという。だが、希望はカラスではなく、古びた木桶のほうにあった。数日後、男はそこに真水が溜まっているのを見出し、砂地の毛細管現象によるものと考え、ひそかに溜水装置の研究をはじめる。そんなある日、女が突如、激しい腹痛に苦しみだす。子宮外妊娠らしい。村人たちがやってきて慌ただしく女を医者のもとへ運び去ったあとには、縄梯子が取り残されていて、男はそれを伝って久しぶりに陸上へ上がる。あたりに人影はない。だが、砂丘のつらなりやその向こうの海の波濤をひとわたり見渡すと、男はふたたび縄梯子をつかんで地の底へ降りていく……。
映画は暴きだすのだ、かつて男の目に映っていた世界と、いま目の前に広がる世界とはすっかり顔つきが変わったと。ドロップアウトの3カ月のあいだ、社会秩序から解き放たれていたことが、男にとっての世界を変貌させてしまったのだ。
今日、新型コロナウィルスの猛威は、あれだけ盤石を誇っていた社会秩序をあっという間に融解して、内閣総理大臣や都道府県知事がこぞって国民に「巣ごもり」を訴える事態となった。日本列島がまるごと蟻地獄に化したかのような月日を経て、やがてウィルスの収束を見たときに、われわれの眼前にはまったく別の世界が立ち現れるはずだ。その新しい世界に向かって一歩を踏み出せるか。それとも、男と同じように小さな希望にしがみついて「巣ごもり」に回帰しようとするだろうか。ラストシーンで男が口にする独白は、ともするとわたしの耳にも甘美にさえ響くのである。
べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。私の往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。おまけに、私の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとすれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、私は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
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